4時代で活躍した二人の箏曲家 『箏曲家・流派が違う人間国宝』 2代目 上原真佐喜(山田流)×初代 米川文子(生田流)

上原真佐喜さんのお墓

箏曲(そうきょく)とは、「箏」(そう)つまり「こと」の音楽の総称です。一般的には「おこと」とも言い、漢字にすると「琴」を当てて「お琴」と書く場合も多いです。この楽器は元々「雅楽(ががく)」という古代成立の管弦楽の編成楽器のひとつでした。近世箏曲は、戦国末期から江戸時代はじめにかけて活躍した僧侶の賢順が完成した「筑紫箏」(つくしごと)を始祖とします。最初は娯楽性ではなく礼や精神性を重んじる音楽でした。賢順の弟子の法水に師事した盲目の八橋検校(やつはし・けんぎょう)が、三味線や胡弓の名手でもあったことで、それを箏に応用し、これまでの律音階による調弦から、都節音階による新たな調弦法である平調子(ひらぢょうし)、雲井調子(くもいぢょうし)に改め新しい曲を発表しました。当世風でかつ芸術性も高く、箏曲家として当時の世に広く受け入れられることになります。以降、「箏曲家」は箏(お琴)・三絃(三味線)・地歌(地唄)の三つを扱うことの出来る演奏者のことを指すこととなり、箏だけを扱う演奏者は一般的に「箏奏者」「箏演奏家」と名乗ることが多いです。

 箏曲家は八橋検校の後、元禄の頃に京都の生田検校によって更に箏曲は改変、整理されました。生田は初めて地歌曲に箏を合奏させました。そして三味線の技巧に対応させるため箏の爪の形状を大きく変えます。しだいに生田の門下生が増え、京都・大阪を中心にして、名古屋、西日本、九州へと「生田流」が広がっていきました。

 上方で箏曲が隆盛していたのに比べ、江戸時代の中期まで江戸では演奏する人が少なく、また武士が中心の江戸は、貴族的・古典的イメージの箏曲は余り受け入れられない土地柄でした。そこで、江戸でも積極的に生田流系箏曲を広めさせようという動きが生まれ、山田検校が抜擢されます。山田検校は、医師山田松黒より箏曲を学んだため、箏曲組歌に対する権威的な考え方に規制されず、 自由な発想で箏曲を考えることができました。当時浄瑠璃と謡曲は江戸の町家、武家共に最も愛好された音楽であり、山田は江戸浄瑠璃に合う、旋律に起伏があって、音域も高く軽いテンポのある箏曲の新作をつくり大衆の支持を得ます。主に大衆が集まる銭湯で持ち前の美声と箏曲を知らしめ、叙事的、叙景的内容で占められ歌詞は人気を博しました。また箏の改良にも試み、より音量の大きな箏を完成させます。生田流の動きとは異なる江戸で流行らせた山田の流れは、山田流箏曲の創始となりました。

 山田流箏曲は「爪」は三角(やま型)で、絃に対して爪を垂直にあて、やまの一番高いところで弾きます。生田流箏曲は「爪(つめ)」の形が、四角く、手を斜めにして、その角を鋭角に絃にあてて弾く違いがあります。

 前置きが長くなりましたが、多磨霊園には共に人間国宝に認定された山田流と生田流の箏曲家が眠ります。

 山田流の箏曲家である2代目 上原真佐喜(うえはら・まさき)。初代上原真佐喜の三女で東京出身。初代は三歳の時に失明し、9歳の時から箏曲の世界に入り、1890年(明治23年)真佐喜を名乗り、1917年(大正6年)真磨琴(ままごと)会を創立。多くの作曲をしました。2代目はその父に習い、幅広く芸を修めます。林家の養女となり、本名は林兎喜子。1933年(昭和8年)初代が亡くなり、2代目「上原真佐喜」を襲名。山田流古典に優れた解釈と演奏技術を示します。また新作も手掛け、作曲にも尽力し、1966年『香具山にのぼりて』で芸術祭賞を受賞。1970年重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されました。

米川文子さんのお墓

 生田流の箏曲家で人間国宝になったのは米川文子(よねかわ・ふみこ)。岡山県上房郡高梁町出身。異母長姉に箏曲家の米川暉寿(てるじゅ)。兄に箏曲家の米川親敏(米川琴翁)、ロシア文学者の米川正夫(多磨霊園の別地に眠ります)がいます。箏曲一家に生まれ、幼い頃から箏を学び、9歳にして筝曲の免許皆伝となり、伝授書を受けました。1905年(明治38年)に上京、1914年(大正3年)20歳で独立、1928年(昭和3年)箏曲演奏団「双調会」を主宰し生田流家元となりました。1931年生田流の古典研究を目的とした「虹輪会」を結成、1935年には地唄舞研究会を開催し、関西の芸である地唄を東京で広め、1940年大日本三曲協会創立にともない理事に就任しました。芸術祭奨励賞を3度受賞するなど数々の賞を得、1966年に重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。日本三曲協会会長、初代生田流協会会長をつとめ、1976年「学校音楽普及の会」を発足し学校教育での三曲の普及に尽力しました。

 1977年山田流の上原真佐喜と生田流の米川文子が主催し、「筝曲の伝統を守る会」を結成、二人が同所で披露会を催しました。米川文子は1995年(平成7年)に101歳で逝去、2代目上原真佐喜は1996年(平成8年)に92歳で逝去。二人とも明治・大正・昭和・平成の4時代を箏曲家として活躍しました。

2代目 上原真佐喜  埋葬場所: 22区 1種 73側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/uehara_ma2.html

初代 米川文子  埋葬場所: 13区 1種 26側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/Y/yonekawa_h.html

【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。

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◆歴史が眠る多磨霊園 http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/
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