同志討ち…龍馬暗殺より4年前に同じ場所で『寺田屋事件』柴山愛次郎×橋口壮介×森岡昌純

柴山愛次郎さんのお墓

幕末に起きた「寺田屋事件」。多くの人がイメージするのは坂本龍馬が暗殺された寺田屋事件と思われますが、同じ場所で4年前の1862年(文久2年)に薩摩藩の尊皇派志士の鎮撫事件も起きており、そちらが先に起こった「寺田屋事件」です。この幕末に起きた薩摩藩士同志討ちで命を落とした尊王派志士8名と後日京都で自決した同志1人を合わせた9人の志士は京都伏見の大黒寺に葬られ、「寺田屋殉難九烈士墓」が建ちます。しかし、その9名中2名(柴山愛次郎と橋口壮介)のお墓が多磨霊園にもあります。また事件に連座し謹慎を命じられた多磨霊園に眠る人物は橋口吉之丞、柴山良助、西郷信吾(従道)がおり、また討ち取るために派遣された森岡善助(昌純)と敵味方が多磨霊園に眠ります。

 寺田屋事件が起こるまでの経緯を簡単に説明します。幕末は天皇政権を認めつつも政治は徳川幕府が継続して行おうとする派(公武合体)と、倒幕して天皇政権として新しい新政府をつくろうとする尊王派が対立していました。薩摩藩の事実上のトップであった島津久光は倒幕までは考えておらず、久光が入京した際に、幕府朝廷より過激派の志士始末を授かります。このことを知った志士たちは憂国の念から憤慨し、諸藩の尊王派志士らと共謀し、関白九条尚忠と京都所司代酒井忠義を襲撃してその首を持って久光に奉じることで、無理矢理にでも蜂起を促すということに決します。この襲撃前に伏見の船宿の寺田屋に集結しました。

 志士暴発の噂を聞いた久光は、決起を止める工作を打ちますが、抑えることができず、従わない場合には上意討ちもあると剣術に優れた藩士8名を選出して派遣しました。その中に森岡善助(後の森岡昌純)がいました。

 文久2年4月23日夜、当時の寺田屋は薩摩藩の定宿であり、すぐに尊王派志士の居場所を突き止められ、派遣された剣豪たちは、まず話し合いをするために面会を申し出ました。面会を拒絶されると、森岡らが力づくで志士たちがいる2階に上がろうとし押し問答になったため、柴山愛次郎が対応するため1階で面談することになり、橋口壮介らも議論に加わります。志士たちへの説得を続けるも平行線で、「君命に従わぬなら」と派遣された剣豪の道島五郎兵衛が田中謙助を「上意」と叫び抜打ちしたため、同志討ちの激しい斬り合いが始まりました。山口金之進も抜刀し話し合いの先頭に立っていた柴山はその場で斬られました。これを見た橋口壮介は奈良原喜八郎、有馬新七は田中を斬った道島に斬りかかります。有馬の刃が折れたため道島に掴みかかり、近くにいた橋口吉之丞に「我がごと刺せ」と命じ、その言葉通り有馬と道島の両名を絶命させました。橋口は奮戦していましたが、奈良原に肩から胸まで斬られ倒れ、最期に水を所望して飲んだ後に息絶えました。橋口と奈良原は若き日に共に剣術の鍛錬をしていた友人でした。派遣された剣豪の森岡は西田直五郎と相打ちとなり、西田は絶命し、森岡は重傷を負いました。なお、尊王派の薩摩藩士の大半はすぐに投降し、橋口吉之丞、柴山良助、西郷信吾(従道)らは帰藩謹慎を命ぜられました。 結果、この事件によって幕府朝廷の久光に対する信望は大いに高まり、久光は公武合体政策の実現(文久の改革)のため江戸へと向かうことになるのです。

 柴山愛次郎(しばやま・あいじろう)の父は薩摩藩医の柴山良庵。名は道隆。兄の柴山良助も寺田屋事件に連座し謹慎となり、弟の柴山矢八は後に海軍大将・男爵になります。全員多磨霊園の同墓所に眠ります。愛次郎は若くして藩校造士館の訓導に任命された秀才で、常に同じ志を持つ橋口壮介と行動を共にしていました。平野国臣との会見、江戸詰任命、江戸で義挙計画の仕上げを行って大坂に乗り込み、九州から同志の到着を待って、伏見の寺田屋に集まるまで橋口とは一緒でした。享年27歳。

橋口壮介さんのお墓

 橋口壮介(はしぐち・そうすけ)は薩摩藩士の橋口彦次(兼柱)の長男で、名は隷三。弟に寺田屋事件に連座した橋口吉之丞(次郎)がおり、全員多磨霊園に眠ります。幼少の時から気骨人に優れ、文武二道を修め、特に大山綱良より薬丸自顕流を学び秀逸で、造士館の教導(藩校造士館訓導)となりました。寺田屋事件に派遣され斬り合うことになる剣豪たちと交流を深めていましたが、勤王の志を厚くし、安政以来の幕府の朝廷に対する態度に憤慨し、柴山らと尊王挙兵論に意志を固めていきました。享年22歳。

森岡昌純さんのお墓

 寺田屋事件で刺客として送り込まれた森岡昌純(もりおか・まさずみ)。前名は森岡善助。重傷を負うも尊王志士を倒したことで名を馳せます。維新後は、内務官僚となり、兵庫県権令及び、兵庫県県令として、兵庫県において地租改正の断行、県会議員選挙の実施など県政に携わりました。1885年に農商務少輔に転じ、政府出資の海運企業である共同運輸会社の社長に就任。日本郵船会社創立に伴い初代社長を務め、沿岸近海航路からやがて遠洋定期航路を可能にする基礎を築きました。以後は男爵を授爵し、貴族院議員に勅選されました。

柴山愛次郎  埋葬場所: 10区 1種 13側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/S/shibayama_a.html

橋口壮介  埋葬場所: 22区 1種 5側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/H/hashiguchi_so.html

森岡昌純  埋葬場所: 22区 1種 37側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/M/morioka_m.html

【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。


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◆歴史が眠る多磨霊園 http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/
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