
1963年3月31日(昭和38年)東京都台東区に住む建築業者の長男の村越吉展(当時4歳)が公園に遊びに出掛け行方不明なりました。2日後、身代金50万円を要求する電話が入ります。過去の反省から警察は報道機関に対して報道自粛を要請。日本で初めて「報道協定」が結ばれました。犯人から何度も身代金を要求する電話が入り、4月7日に被害者宅からわずか300メートルしか離れていない場所に身代金受け渡しを指定。本物の紙幣50万円を用意していた母親は近かったため直ぐに行動。張り込みの捜査員もいましたが急な展開に犯人を取り逃し、身代金を奪取した犯人は逃亡。以降、犯人からの連絡も途絶え、被害者も帰って来ず。マスコミを通じて犯人に被害者を帰すように訴えるも反応がないため、4月19日「吉展(よしのぶ)ちゃん誘拐事件」として公開捜査に切り替えます。国民的関心事になり、多くの情報が寄せられるも犯人に直接つながる有力情報がありません。そこでテレビやラジオで犯人の電話の音声を公開。番組を偶然聞いて逮捕に繋がる有力な情報を提供したのが、言語学者の金田一春彦です。
金田一春彦(きんだいち・はるひこ)は東京本郷出身。父はアイヌ語研究など著名な金田一京助です。はじめは作曲家を志し本居長世に弟子入りをしようとしましたが、本居の神業のようなピアノ演奏に圧倒され作曲家を断念すると同時に、本居の日本語のアクセントを大事にする作曲法に触れ、父と同じ言語学者を目指します。以降、東京帝国大学に入り、日本語のアクセントを歴史的に研究しました。卒業後は東京方言学会に入り、埼玉県東部方言のアクセント調査から始め、全国各地の方言のアクセント調査の研究を行います。戦後はNHK「ことばの研究室」の常任講師、NHKアナウンサー養成所講師などを務めました。1950年自ら監修に携わった三省堂の中学国語教科書『中等国語』がベストセラーとなり、3年後には日本全国の中学校の3分の1で採用されます。1957年に刊行した『日本語』もロングセラーとなりました。
「吉展ちゃん誘拐事件」の犯人の電話音声を聴いた金田一は、「この発音は茨城か栃木か福島だよ」と呟き、それを聞いた珠江夫人がNHKに電話。朝日新聞に「青」や「三番目」という言葉のアクセントや鼻濁音の使用等から「奥羽南部」(宮城県・福島県・山形県)または茨城県・栃木県出身ではないかという推論を発表しました。この情報は犯人絞り込みにつながることになり、実際逮捕された犯人が茨木県と栃木県に境を接する福島県南部出身者だったことでメディアに注目されました。なお、この事件は事件解明まで2年3ヵ月要し迷宮入り寸前で犯人逮捕となりましたが、誘拐された吉展ちゃんは誘拐されたその日に殺害されており、かつ身代金を奪取された汚点は、その後の警察の捜査の改善へと教訓となる戦後最大の誘拐殺害事件とされています。
2004年1月31日(平成16年)午前9時頃、毎日新聞社長であった齋藤明が、東京都内の自宅近くを散歩中に顔に布をかぶせられワンボックス車に押し込められ、男6人に拉致、車内に監禁される事件が起きました(毎日新聞社長監禁事件)。衣服を脱がせて全裸にされ、両手足を粘着テープで縛られて、その姿を撮影。犯人は「世間に写真をばらまかれたくなかったら社長を辞任しなさい」と脅迫したといいます。約2時間後の午前11時すぎに自宅近くで解放されました。自らが同日午後、警視庁に届け出て事件が明るみになります。
齋藤明(さいとう・あきら)は京都出身の銀行家の齋藤保義の長男として、父が横浜正金銀行上海支店に勤めている時に生まれました。1959年(昭和34年)東京大学法学部を卒業し、毎日新聞社に入社。横浜支局、社会部、政治部に勤務し、政治部副部長時代に連載した『転換期の安保』にてサントリー学芸賞を受賞します。その後も、政治部長、論説委員長、主筆兼東京本社編集局長、専務などを歴任し、1998年代表取締役社長に就任。
2003年5月1日、毎日新聞写真部記者による「アンマンの国際空港爆発事件」が発生し、その対応に追われました。これはイラク戦争を取材した記者が、取材中に拾ったクラスター爆弾の子爆弾を記念品として持ち帰ろうとしたところ、空港の手荷物検査所で爆発し、職員1名が死亡、近くにいた5人が負傷しました。記者は爆発物不法所持、過失致死、過失致傷の罪に問われ逮捕。社長の齋藤は事件発生後、すぐに現地の空港に赴き、お詫びとお見舞いをし、ヨルダン国民にコメントを出しました。結果、アブドラ国王による特赦が許され釈放・帰国しました。
この事件から8か月後に、自分自身が拉致監禁される事件が発生。犯人は毎日新聞社の関連会社「国際観光ホテルナゴヤキャッスル」が経営する名古屋市内のホテルにコーヒー豆を納める取引業者の役員でした。犯人全員は一週間後に逮捕され、監禁と強要未遂の罪で起訴されました。毎日新聞は警視庁が起訴を公にする10分前までこの事件を公表せず、約1ヵ月の間、事件を公にしませんでした。理由は再度危害が及ぶ可能性、撮影された写真が流布される可能性がなくなった時点を公表時期としたと説明しましたが、事件公表が遅れたことで様々な憶測が飛び、社長に対する誹謗に近い記事も出ます。齋藤が名誉棄損で訴えるまでに発展。
齋藤は「同じ報道に携わる者としては悲しい」とコメントし、提訴された週刊誌は「報道機関が『言論には原論で』の原則を自ら捨てるのは悲しい行為」とコメント。これに対して毎日新聞は「表現の自由は最大限保障されるべきだが、記事は社会的に許される限度を超えている」とコメント。報道の在り方を考えさせられる事件となりました。
金田一春彦 埋葬場所: 9区 2種 7側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/K/kindaichi_ha.html
※父の金田一京助の墓は雑司ヶ谷霊園(1-22-5)ですので、多磨霊園には眠っていません。
齋藤 明 埋葬場所: 20区 2種 36側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/S/saitou_ak.html
※齋藤家には父で銀行家の齋藤保義も眠っています。
【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。