
1964年(昭和39年)東京オリンピックで女子バレーボールはソ連との優勝決定戦を制して金メダルに輝きました。この時の視聴率は66.8%というスポーツ中継歴代最高記録を叩き、「東洋の魔女」と呼ばれ人気を博しました。女子チームばかりが注目されましたが、男子バレーボールはどうだったのでしょうか? 実は銅メダルに輝いています。この男子日本代表チームのコーチで、後に日本バレーボール界の父と称されたのは松平康隆です。
松平康隆(まつだいら・やすたか)は東京荏原出身。松平家は旧加賀藩士の家老で、幕末期に小松城代を務めた松平大弐家の血を引く家系です。1947年(昭和22年)慶應義塾大学に入学しバレーボール部主将として、全日本バレーボール選手権で優勝。卒業後に日本鋼管(NKK)に入り、選手・監督として活動。1954年全日本入り、1961年に選手を引退し、ソ連で6人制バレーボールを学び、帰国後、男子日本代表コーチに就任しました。そして、1964年の東京オリンピックにて諸外国の体力差を跳ね返し、金メダルを得たソ連を破る金星を上げ、銅メダルに輝いたにも関わらず、大会終了後の女子が招待された祝賀パーティーに男子は呼ばれませんでした。松平の「負けてたまるか」の精神はこの時の悔しさがベースであったと後に語っています。
世界一にならなければ駄目だという決心が生まれた翌年より、全日本の監督に就任します。そこで「8ヵ年計画」を掲げ世界一を目指します。選手一人ひとりに役割を明確にさせ、俊敏性を養わせフライングレシーブや速攻コンビネーションなどを完成させ、「松平サーカス」と呼ばれ各国から恐れられました。1968年メキシコオリンピックで銀メダル、ついに計画通り、1972年ミュンヘンオリンピックで金メダル獲得に導きました。監督勇退後は、アジアバレーボール連盟会長や日本バレーボール協会会長などを務め、1998年にはアメリカ人以外で初めてバレーボール殿堂入りを果たします。世界有職者スポーツ人の殿堂の1人にも選出されました。
バレーボール界の総合ディレクターとしての手腕も発揮します。観客をテレビに映る側に集め見栄えを良くすることでスポンサー獲得を目指し、選手のテレビ番組出演やアニメ制作の企画や監修。話題作りのために選手にニックネームをつけ、モデル雑誌などあらゆるメディアに露出させファンの獲得。ジャニーズと提携し女性ファンの観客動員を増やし、将来プロ化を前提としたVリーグ発足など、アイディアマンとしても活躍しました。
「練習ハ不可能ヲ可能ニス」の名言を生み出したのは、経済学者で慶應義塾大学塾長を務めていた小泉信三(こいずみ・しんぞう)です。東京芝出身。父の小泉信吉も慶應義塾塾長を務めた人物です。6歳の時に父が亡くなったため、福沢諭吉の邸内に一時住んでいたこともあります。
慶應義塾普通部2年の時に庭球(テニス)部に入り、大学時代は主将として活躍。1910年に卒業し、同校教員となります。イギリス留学中にウィンブルドン選手権を観戦し、著書「庭球術」を日本に送り、後輩たちに硬式テニスを推奨しました。帰国後、教授となると同時に、1922年(大正11年)庭球部部長に就任。庭球部から日本初のオリンピックメダリスト熊谷一弥、デビスカップに出場した山岸二郎、原田武一を輩出しました。
1933年(昭和8年)塾長に就任します。野球愛好者でもあり、戦時中、野球に対する弾圧が厳しくなる中、野球擁護の先頭に立ち、1943年10月16日学徒出陣壮行“最後の早慶戦”を決行、実現させました。戦後も学生野球協会の審査室委員として発展に尽力。1976年に特別表彰という形で野球殿堂入りを果たしています。なお
、戦後は東宮御学問参与を務め、明仁親王(当時の皇太子:平成天皇:現在の上皇)の教育にあたられ、初の民間から皇室に入った美智子妃との実質的な仲人ともいわれています。1959年に文化勲章受章。
「できるかできないかではない。したいかしたくないかである」。日本赤十字社で青少年の教育に並々ならぬ手腕を発揮したのは、橋本祐子(はしもと・さちこ)です。
1964年に東京パラリンピックで語学奉仕団を結成しました。これは自主運営の通訳ボランティアです。14か国語を話す学生200人が結集。大会では22か国の車いす選手計375人を無償で介助しました。大会前に語学の勉強を重ねたほか、病院を訪ね障がいに関する研修も行う徹底ぶりでした。この大会だけでなく、青少年の障がい者技能を競い合うアビリンピックなどでも奉仕団を組織します。当時はまだ「ボランティア」という概念が薄かった時代に定着させた人物として有名となりました。
1970年に汎太平洋青少年赤十字セミナーを日本で開催するなど多方面に活躍し、1972年アジア初、女性として世界で初めて国際赤十字最高の栄誉である「アンリ・デュナン・メダル」を受章しました。1974年アンリー・デュナン教育研究所を設立し、生涯を青少年育成に尽力されました。
「奉仕は、人生の家賃」・・・人は人に支えられて生きている。関わったすべての人に恩返すことはできない分、自分が住んでいる社会に還元するのだ。これがボランティアの本質である。
松平康隆 埋葬場所: 2区 1種 9側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/M/matsudaira_ya.html
小泉信三 埋葬場所: 3区 1種 17側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/K/koizumi_sn.html
橋本祐子 埋葬場所: 12区 1種 14側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/H/hashimoto_sa.html
※橋本祐子は日清汽船重役の父の赴任先の上海で生まれ、外交官の橋本昂蔵と結婚し、戦前は夫の赴任先に同行していたので英語が堪能でした。戦後、進駐軍に英語の実力を買われ、アメリカの赤十字社の人を紹介されたのが赤十字社入社の動機です。39歳の時でした。
【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。