大臣の切腹で終戦の現実を…『世紀の自決』阿南惟幾×宇垣纒×甘粕正彦

阿南惟幾さんのお墓

1945年(昭和20年)8月15日正午、本土決戦一色であった陸軍軍人たちは、昭和天皇の玉音放送からポツダム宣言受諾を聴き、同時に陸軍大臣であった阿南惟幾の自刃と、「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」の遺書を知ります。全軍の信頼を集めている阿南の切腹は最も強いショックを与え、徹底抗戦、戦争継続の主張はピタリとやみ、終戦の現実を受け入れる劇的な効果をあげました。

 阿南惟幾(あなみ・これちか)は東京牛込出身。父は政府軍警部等を務めていた官吏の阿南尚で、幼少期は父の転勤で大分や徳島などで育ちます。徳島中学二年生の時に、父と親交があった乃木希典に剣道の腕前を誉められたことがきっかけで軍人の道を志し、1905年(明治38年)陸軍士官学校卒業(18期)。1910年より陸軍中央幼年学校生徒監となり、学科以外の生徒指導に熱心すぎて、陸軍大学受験に3度失敗し、4度目にして合格。1918年陸軍大学卒業(30期)。以降は、軍令部参謀、フランス出張、歩兵連隊長などを歴任し、1935年(昭和10年)少将に昇進しました。将官に出世するには、陸軍大学時代の成績や武勲などが大きく影響します。学生時代から優等ではなく平凡でしたが、普段の修養と努力と向上心、そして人々の信頼をかち得る人物でした。

 1938年に中将となり、第109師団長に就任し支那の山西省太原へ出征。51歳にして軍人として初めて実戦の場に立ちます。阿南師団は山西軍主力殲滅作戦を敢行し、ほとんどの敵主力を殲滅する戦果をあげました。更に2千人の捕虜に対する処置も極めて寛大で、友人を迎えるという風でさえあったといいます。戦死した部下の慰霊祭を施行する際は、敵軍戦死者の供養塔も立てました。
戦争末期の1945年4月に鈴木貫太郎内閣が終戦工作を軸として発足。阿南の性格を熟知していた鈴木本人からの抜擢で陸軍大臣に就任します。終戦の前日の閣議において、鈴木総理を筆頭に各大臣によって終戦詔書への副署が行われました。最後まで本土決戦を主張した阿南も、昭和天皇の終戦の意志が固いことを知り同意して副署しました。「軍を失うも、国を失わず」そうつぶやいたといいます。これにより、長かった15年戦争(日中戦争と太平洋戦争)に日本国は終止符を打ち、翌日、ポツダム宣言受諾を行い終戦となりました。

阿南家の句碑

 終戦のまさにその日、特攻兵を送り出す命令を出していた宇垣纒は、玉音放送を聞いた後に、最後は自らが特攻隊として特攻死を遂げました。

宇垣纏さんのお墓

 宇垣纒(うがき・まとめ)は岡山県出身。隣家で陸軍大将の宇垣一成に憧れ軍人を志します。1912年(明治45年)海軍兵学校卒業(40期)。海軍砲術学校や海軍大学校を経て、ドイツ駐在や参謀、教官などを歴任し、1935年(昭和10年)連合艦隊主席参謀に着任し、八雲艦長、日向艦長を務めました。その後、山本五十六の連合艦隊の参謀長に就任。1942年のミッドウェー海戦ではパニックに陥った参謀たちに代わり、冷静に対応し参加部隊を統率して撤退させます。翌年、山本と共に一式陸上攻撃機2機に分乗して前線視察のためラバウルからブインに向かっている中、待ち伏せしていた米軍機に襲撃され撃墜。山本は戦死、宇垣も負傷しました(海軍甲事件)。宇垣は山本の遺骨と持ち帰還。その際、山本の形見として短刀を貰いました。

 1945年2月から第5航空艦隊司令長官に就任し、鹿屋の司令部に着任。軍令部、連合艦隊の指示・意向による特攻を主体とした部隊編成が初めて行われ、長官訓示で全員特攻の決意を全艦隊に徹底。特攻を主体とした米艦隊への海軍の航空総攻撃作戦を行います。沖縄戦の際は1日に161機も海軍特攻として出撃させたこともありました。終戦直前の8月10日に、第3航空艦隊司令長官に親補されますが着任せず終戦を迎えました。そして8月15日早朝に攻撃中止命令が出される中、自らが特攻するための「彗星」の準備をさせ、部下たちも命令違反を承知で同行すると追随。結果11機23名(途中3機が不時着、5名生存)で、沖縄沖に向かい飛び立ちました。宇垣機からは訣別電があり、続いて「敵空母見ユ」「ワレ必中突入ス」を最後に連絡は途絶えました。なお、これによる米軍側に被害はなく、翌朝、沖縄の伊平屋島の岩礁に突っ込んでいる彗星機を米軍が発見。機体から3人の遺体を収容。飛行服を身に付けていない遺体の所持品に山本の形見の短刀が発見されました。

 この玉音放送後の特攻は命令違反であり、また部下を巻き込んでの自決に対して賛否意見が割れ、戦後しばらくは戦没者と認められず、靖国神社に合祀もされませんでしたが、後に合祀され、勲章も追贈されました。

甘粕正彦さんのお墓

 最後に甘粕正彦(あまかす・まさひこ)を紹介します。山形県出身で、陸軍士官学校(24期)卒業。歩兵少尉となりますが、1918年(大正7年)に憲兵に転じました。1923年関東大震災直後の混乱時期に、労働運動家に対する取り締まりを強化し、甘粕は無政府主義者の大杉栄、その夫人の伊藤野枝、甥の少年の橘宗一の3人を連行し、東京憲兵隊本部にて扼殺しました(甘粕事件)。軍法会議にて甘粕は懲役10年の刑を受け服役。しかし、1927年(昭和2年)恩赦減刑され出獄。フランス経由で満州に渡り、満州事変の黒幕として関わります。1932年満州国建国と同時に満州国民政部警務司長に就任。その後、母親の旧姓の内藤から名付けた「内藤機関」を開設。また協和会中央本部総務部長、満州映画協会理事長という表の顔を持ちつつ、裏で暗躍します。

 1945年敗戦とともに満州国が解体され、甘粕は自分の人生と満州国の運命を重ねて詠んだ辞世の句を歌い服毒自殺を遂げました。『大ばくち 身ぐるみ脱いで すってんてん』

阿南惟幾  埋葬場所: 13区 1種 25側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/anami_k.html
※阿南家の墓所内には惟幾の辞世の句碑が建ちます。
この句は、1938年に支那に出征する際、昭和天皇に呼ばれ二人だけで夕食をとられたことを感激して作った和歌です。『大君の 深き恵に 浴(あ)みし身は 言ひ遺こすへき 片言(かたこと)もなし』

宇垣 纏  埋葬場所: 20区 1種 8側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/ugaki_m.html

甘粕正彦  埋葬場所: 2区 2種 16側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/amakasu_m.html

【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。

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◆歴史が眠る多磨霊園 http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/
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