
多磨霊園には多くの音楽家たちも眠っています。二回に分けて特筆すべき人物たちを紹介します。まずは指揮者の小沢征爾や岩城宏之、チェロの堤剛や岩崎洸らを育てた音楽界の巨匠は、斎藤秀雄です。
斎藤秀雄(さいとう・ひでお)は、東京出身。英語学者の斎藤秀三郎の次男として生まれます。1923年(大正12年)からライプチヒ音楽院に留学し、クレンゲルに師事しました。一時帰国後、1930年(昭和5年)から再度渡欧し、ベルリン高等音楽学校でフォイアマンに師事します。
最初、チェロ奏者として日本交響楽団の首席奏者をつとめましたが、1940年に退団し、指揮者に転じました。1942年に松竹交響楽団、1943年に日本放送管弦楽団、1945年に東京フィルハーモニー交響楽団の各指揮者を歴任。戦後は指揮者としても独特な風格のある演奏を聴かせていましたが、後身の指導にも力を入れ、近年の日本の洋楽演奏界のめざましい発展に尽くしました。
世界で初めて認められた日本人ピアニストは小倉末子(おぐら・すえこ)です。大垣藩士である小倉周一の三女として東京で生まれますが、両親を早くに亡くし、3歳の時に兄の小倉庄太郎の家に引き取られ神戸で過ごします。兄の庄太郎は貿易商で財を成し、妻はドイツ人のマリア。末子は義姉のマリアとの相性が良く、母の代わりとして育てられました。幼稚園児の時にピアノの絵を書くことで記号の位置まで覚えてしまい、それを見たマリアがピアノの手ほどきをすると、小学校入学時には基盤の位置まで覚え、楽譜から目を離さず弾けるようになったといいます。マリアは末子のピアノの才能を見出し、8歳からピアノの英才教育を行いました。
1905年(明治38年)日本初のゴルフ場「神戸ゴルフ倶楽部」ができると、庄太郎が会員となり、外国人たちとゴルフを始めました。またピアノ以外の経験をさせるために、15歳の末子も連れて行き、一緒にゴルフをさせました。これが「日本のゴルフ史」としては、庄太郎が日本人としての最初のゴルファーであり、末子が日本で最初の婦人ゴルファーとして歴史に刻まれています。
末子は神戸女学院音楽科を経て、東京音楽学校に入り、更にマリアの進言で留学を奨められ、1912年ベルリン王立音楽院ピアノ科に入りました。ドイツはマリアの母国でもあり、通訳兼身の回りの世話役として同行しました。1914年(大正3年)第一次大戦勃発のため、やむなくドイツからアメリカのニューヨークに末子とマリアは渡ります。そこでコンサートに出演して激賞され、ニューヨークタイムズに紹介され評判となりました。これが日本人女性として初めて国際的ピアニストと認められることとなります。翌年シカゴのメトロポリタン音楽学校から招聘され教授に就任しました。1916年凱旋帰国し、25歳の若さで母校の東京音楽学校の教授として迎えられます。以降、四半世紀以上にわたり演奏と教育の第一線で活躍しました。
明治・大正時代には多くのお雇い外国人が日本に来日し、様々な分野を日本人に指導しました。ハインリッヒ・ウェルクマイスターもその一人です。ウェルクマイスターはドイツのバルメン出身。1907年(明治40年)ベルリン音楽学校を卒業し、同年来日、東京音楽学校などでチェロを教えました。1921年(大正10年)にいったん帰国しますが、1923年再び来日。我が国のチェロ演奏の普及に尽力しただけでなく、室内楽を日本に紹介し、作曲の指導も行いました。生涯日本の地で音楽教育を行い、アウグスト・ユンケルとともに、我が国の管弦楽界の育ての親として称されています。
ビートルズで活躍したジョン・レノンの妻であるオノ・ヨーコの父の小野英輔は、ピアニストから銀行家に転進しました。英輔の兄の小野俊一が動物学者で、最初の妻がヴァイオリニストの小野アンナです。英輔はアンナに音楽のイロハを学んだといいます。
小野アンナは本名アンナ・ディミトリエヴナ・ブブノワ。父はロシア帝国の官僚、母のアンナ・ニコラーエヴナは声楽家、姉のワルワーラは画家、妹のマリヤはピアニストの音楽一家。10歳からヴァイオリンを学び、ペテルブルグ音楽院でフリーアーティストの称号を得ます。1917年(大正6年)ロシアに留学していた俊一と結婚をしましたが、翌年ロシア革命が起こり、28歳の時に来日。以降、日本で小野アンナ音楽教室を主宰し、多くの門下生を育てました。1922年に母と姉のワルワーラを呼び寄せ皆で小野家に同居します。
俊一とアンナの一人息子の俊太郎の死など重なり、二人の仲ですれ違いが起こり協議離婚をしました。しかし、離婚後もアンナは日本に留まり、ヴァイオリン演奏の進展に寄与し続けました。なお、離婚後、俊一が後妻を娶り、後妻との子である後に地球環境科学者になる小野有五が生まれた後も、小野家との相性は良く、姉と共に小野家に住まわせていました。1958年に俊一が没したことを機に、アンナとワルワーラは惜しまれつつソ連に帰国。その際、1959年日本政府から勲4等瑞宝章が贈られました。晩年はジョージアのスフミ音楽院の教授をつとめ永眠。2016年(平成28年)小野有五や教え子たちが、多磨霊園の小野家の墓所内に「小野アンナとワルワーラ・ブブノワ 記念碑」を建てました。なお、小野家の墓所には俊一、子の俊太郎、母のニコラーエヴナの墓石が建ちます。
斎藤秀雄 埋葬場所: 2区 1種 4側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/S/saitou_hdo.html
※墓所内は仙台藩伊達家に仕えた祖父の斎藤永頼、父の斎藤秀三郎の墓石もそれぞれ建ちます
小倉末子 埋葬場所: 10区 1種 4側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/ogura_s.html
※小倉家之墓には兄の庄太郎とマリアも眠ります。墓所内には「小倉末子先生の碑」が建ちます。
ウェルクマイスター(Werkmeister, Heinrich) 埋葬場所: 外人墓地区 1種 11側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/werkmeister.html
※墓石には「ウェルクマイステル」と刻みます。
小野アンナ 埋葬場所: 6区 1種 5側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/ono_an.html
※小野アンナとワルワーラの碑。
※小野家は多数の墓石が建ちます。
【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。