探偵・ミステリー小説の大御所もここに『多磨霊園に眠る作家たち』吉川英治×江戸川乱歩×中島敦×内田魯庵×物集和子

多磨霊園には多くの作家・小説家も眠ります。「宮本武蔵」を描いた作品は数多く語られてきましたが、現代の宮本武蔵像を創り出したのは吉川英治です。

 吉川英治(よしかわ・えいじ)は神奈川県出身。旧小田原藩士の子として生まれます。本名は英次。小学生の時に雑誌「少年」に作文を投稿し入選。家庭事情から小学校を中退し活版職工や行商など職を転々とした後、蒔絵師の家に住み込み川柳をつくり始めました。1914年(大正3年)吉川雉子郎の筆名で投稿した『江の島物語』が講談倶楽部に3等当選。文芸の三越の川柳に1等当選。後に講談社の懸賞小説に3編投稿し入選をします。

 1921年東京毎夕新聞に入社し『親鸞記』などを執筆。関東大震災で同社が解散したのを機に文筆業に専念。面白倶楽部に『剣魔侠菩薩』を連載。1925年に雑誌キングに吉川英治の筆名で『剣難女難』を発表し人気を博します。1926年に大阪毎日新聞に連載した『鳴門秘帖』で時代小説家として大衆文壇で地位を得ました。その後も時代もの、維新もの、伝奇性あふれる作品を世に出し、1935年から朝日新聞に『宮本武蔵』を連載しました。

 当時の宮本武蔵像は猜疑的な印象が強くさほど人気があった歴史上人物ではありませんでしたが、吉川の剣禅一如を目指す求道者宮本武蔵を描いたインパクトは強く、佐々木小次郎との巌流島の決闘までを描く長編は新聞小説史上かつてない人気を得ました。この作品は太平洋戦争下の人心に呼応し、大衆小説の代表作となります。

 その後、戦時中は毎日新聞特派員として従軍しながら執筆を行い、戦中戦後に、多くの歴史小説を連載し衰えぬ筆力を示しました。1960年に文化勲章を受章。

平井家のお墓

 探偵・ミステリー小説の大御所といえば江戸川乱歩(えどがわ・らんぽ)です。本名は平井太郎。1920年(大正9年)ロシア人作家のエドガー・アラン・ポーをもじって筆名を江戸川藍峯とし、二年後より江戸川乱歩としました。処女作『二銭銅貨』が新青年に掲載されたのを皮切りに、『D坂の殺人事件』、朝日新聞に連載した『一寸法師』など次々に作品を発表。トリックと論理のある探偵小説をめざし独創的な作品を世に出します。有名な明智小五郎と怪人二十面相などのキャラクターを生み出しました。戦後は創作と共に評論・研究・指導に力を入れ、探偵作家クラブ・江戸川乱歩賞の設立。雑誌「宝石」の編集など活躍しました。

江戸川乱歩さん墓所

 国語の授業で勉強した記憶がある人も多いであろう『山月記』。この作者は中島敦(なかじま・あつし)です。祖父は亀田鵬斎流の書を伝える漢学者の中島撫山(慶太郎)。父は漢学教育者の中島田人。伯父の中島斗南(端蔵)や中島辣は漢学者と、父方はほぼ全員が漢学を修めています。

中島敦さんのお墓

 1933年に東京帝国大学国文学科を卒業し、森鴎外を研究し、横浜の女学校の国語と英語の教師となりました。戦時中は南洋庁の官吏としてパラオへ教科書編纂掛として赴任。この時に体感したことをまとめた作品として『南島譚』、『環礁―ミクロネシヤ巡島記抄― 』が後に誕生します。
1942年2月『山月記』『文字鍋(もじか)』『古譚(こたん)』を発表し作家デビュー。3月に戦争激化のため帰国。5月に『光と風と夢』を発表し注目され、7月に官吏を辞職し、持病の喘息と闘いながら、執筆活動に専念。『過去帳』、『悟浄出世』など立て続けに発表するも、その年の12月に気管支喘息悪化による喘息の発作を起こし逝去。享年33歳の若さでした。遺作『李陵』など没後に幾つかの作品も発表されました。デビューから一年でしたが多くの作品を怒涛の如く発表し、どの作品も高く評価されています。

中島田人さん中島辣さんのお墓

 ドストエフスキーやトルストイを日本に紹介し、『罪と罰』『イワンの馬鹿』などを翻訳し、明治後期から大正期の若者に影響を与えたのは内田魯庵(うちだ・ろあん)です。内田魯庵は「女学雑誌」「国民之友」に評論を発表し批評家として認められ、ロシア文学を翻訳発表し、文学は常に社会・人生の問題と真剣に取組むべきことを主張しました。その立場から硯友社の代表的評論家として活動。また、1898年に『暮の二十八日』を発表し小説家としても認められ、更に随筆、文明批評などにも優れ、『思い出す人々』の回想録は傑作とされています。

内田魯庵さんのお墓

 最後に、物集和子(もずめ・かずこ)を紹介します。私のようにお墓をきっかけとして歴史上人物を学ぶ趣味のことを「掃苔(そうたい)」と言います。同じ趣味人の掃苔家としての著作を刊行しています。

物集和子さんのお墓

 物集和子の本名は和。国語学者の物集高見の娘。跡見高等女学校卒業。姉の芳子(推理小説家)とともに夏目漱石に師事、1910年「ホトトギス」に小説『かんざし』を発表。 翌年、平塚らいてうに誘われ青鞜発起人5人のうちの一人となります。「青鞜」に多くの小説を発表しますが、同誌二巻四号が発禁になり物集家へ官憲が踏み込んだことから父の怒りをかい、母の死を理由に青鞜を退社。しかし、その後同誌には藤岡一枝の筆名で作品を発表し続けました。レントゲン医学者の藤浪剛一と結婚。聾教育振興会婦人部常任幹事などを務めました。

吉川英治  埋葬場所: 20区 1種 51側
www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/Y/yoshikawa_e.html
※吉川英治墓所は文机の上に経筒が載ったデザイン。墓所設計者は建築家の谷口吉郎。

江戸川乱歩  埋葬場所: 26区 1種 17側(平井家之墓)
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/edogawa_r.html
※江戸川乱歩の墓所は本名の「平井家之墓」。墓所内には「江戸川乱歩墓所」という石柱が建ちます。

中島敦  埋葬場所: 16区 2種 33側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/N/nakajima_a.html
※中島敦の墓所には多くの墓石が建ち、父方の漢学者として活動した中島田人(父)、中島辣(伯父)らも眠ります。

内田魯庵  埋葬場所: 12区 2種 1側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/uchida_ro.html

物集和子  埋葬場所: 9区 1種 10側(藤浪家墓所)
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/M/mozume_k.html
※墓所入口に夫である「藤浪剛一墓所」の石柱が建ちます。正墓は名古屋市千種区にあります。

【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。

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◆歴史が眠る多磨霊園 http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/
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