波乱万丈な芸術一家、父は現代マンガの創始者で母は奔放華麗な小説家 『芸術は爆発だ! 岡本一家』 岡本一平×岡本かの子×岡本太郎

岡本一平さんのお墓

後年はTVなどメディアへの露出も多く、「芸術は爆発だ」のCMで庶民的にも知名度が高かった芸術家の岡本太郎。岡本太郎の父は、ストーリー漫画の先駆者である岡本一平。母は小説家の岡本かの子です。今回は岡本家を見ていくことにしましょう。

 岡本一平の祖父は津藩に仕えた儒学者の岡本安五郎で、父は書家の岡本可亭。長男として北海道函館で生まれます。東京美術学校西洋画学科に進学し、藤島武二に師事。この時、同級生の仲介で大貫カノ(岡本かの子)と知り合い、後に結婚しますが、岡本家に受け入れられず、2人だけの新居を構えました。

 1910年(明治43年)卒業し帝国劇場で舞台芸術の仕事に関わります。翌年、一平が24歳、かの子が21歳の時に岡本太郎が誕生しました。1912年(大正元年)夏目漱石からマンガの腕を買われ朝日新聞社に入社。漫画に解説文を添える「漫画漫文」というスタイルを築きます。このオリジナルな漫画のスタイルは大正から昭和前期にかけて一時代を画し、1927年(昭和4年)に先進社から全15巻で刊行した『一平全集』は5万セットの予約が入るなど一世を風靡しました。この年に岡本一家はヨーロッパ旅行をします。一平はこの旅を漫画漫文集『世界漫遊』として発表。後年は小説にも力を入れ『刀を抜いて』が映画化されました。また漫画家養成の私塾「一平塾」を主宰し後進の指導も行いました。

 岡本かの子は豪商の大貫家の子として東京の青山で生まれるも、虚弱体質であったため父母と別居し養育母に育てられます。外で活発に遊べないことから養育母から源氏物語など教えられ、村塾で漢文などを習い始めました。16歳頃から投稿をはじめ、17歳の頃に与謝野晶子(多磨霊園に眠ります)を訪ね「新詩社」の同人となり、「明星」「スバル」などに大貫可能子の名義で新体詩や和歌を発表します。19歳の頃に岡本一平と知り合い、21歳の時に結婚して太郎を出産しました。

岡本かの子さんのお墓

 若くして結婚した一平とかの子は、芸術家同士であるが故の強い個性の衝突や、一平の放蕩(ほうとう:酒や女に溺れる)に悩まされます。更に、かの子の兄や母の死去が重なり、長女を出産するも早死。神経衰弱に陥り精神科に入院するまでに苦しみます。一平から離れ環境を変えれば落ち着く望みを持ち、一平了承のもと、かの子を崇拝していた学生の堀切茂雄と同居を始め、身籠っていた次男を出産するも亡くなってしまいました。

 原因をつくった悩みと救いたい一心の一平と、これを克服したいかの子は宗教に救いを求め、まずキリスト教の牧師を訪ねるも腑に落ちず、その後、親鸞の『歎異抄』によって生きる方向を暗示され仏教に帰依。これを機に、かの子は仏教に関するエッセイを発表するようになり、仏教研究家として知られるようになります。

 だいぶ回復し落ち着きを取り戻した岡本家は、1929年に一家でヨーロッパ旅行に行きます。途中、太郎は絵の勉強のためにパリに残り、一平とかの子はロンドン、ベルリンなどに半年ずつ滞在し、1932年アメリカを経由して帰国。元気になったかの子は小説を書きたいと思っていましたが、世間は仏教を語ることを求め、『観音経を語る』『仏教読本』などを刊行。仏教に関する講演や執筆などの合間に、家族とも親交があった川端康成に小説の指導を受け、1936年に芥川龍之介をモデルにした『鶴は病みき』を発表。太郎への愛を描いた『母子叙情』や仏教的な考えを女性目線から描いた『老妓抄』『河明り』『生々流転』『女体開顕』など精力的に執筆しました。

 1939年(昭和14年)脳溢血で倒れ、一平も認知していたかの子の恋人の新田亀三が献身的に看病をするも、49歳の若さで亡くなってしまいました。生前「火葬はきらい」と話していたこともあり、一平と新田は東京中のバラを買い占め、この多磨霊園の地に土葬として葬りました(多磨霊園は外人墓地や一部の地区では当時土葬が認められていました)。仏教で救われたこともあるため、お墓は観音様です。

 家族でのヨーロッパ旅行中にパリで勉強するために留まった太郎は、ソルボンヌ大学に入り、ピカソに影響を受け、後にシュルレアリスム(超現実主義:芸術運動)に関わり傾斜し、結果的に11年間滞在しましたが、1940年ドイツ軍がフランス侵攻を受け帰国。戦時中は陸軍に召集され二等兵として中国に出征。終戦後の1947年に敏子と出会いました(婚姻ではなく養女とする)。

岡本太郎さんのお墓

 1952年東京国立博物館で見た縄文土器の強烈な表現に不思議なモノを感じ、また沖縄の魅力にも影響を受けます。以降、アヴァンギャルド芸術、対極主義を主張し、『夜明け』『重工業』『森の掟』等の問題作を次々に発表。

 他国で個展を開くようになります。1954年に現代芸術研究所を設立。1956年に旧東京都庁舎に『日の壁』『月の壁』など11の陶板レリーフを制作。そして、1967年に日本万国博のテーマ展示プロデューサーになり『太陽の塔』を制作(’70大阪万国博覧会)しました。以後も、平面・立体作品を数多く残し、文筆活動も精力的に行いました。プロ野球の近鉄バファローズ(現:オリックスバファローズ)の“猛牛マーク”を制作したことはあまり知られていません。晩年「君は画家になりなさい」という手紙を送ったことが、画伯ジミー大西を誕生させるきっかけとなりました。

川端康成の辞

岡本一平 埋葬場所: 16区 1種 17側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/okamoto_i.html

岡本かの子 埋葬場所: 16区 1種 17側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/okamoto_ka.html

岡本太郎 埋葬場所: 16区 1種 17側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/okamoto_ta.html

※一平の墓は太郎作「顔」です。「太陽の塔」に似ていますが、一平の墓の方が先に建っています。

※岡本太郎の墓は1967年に制作の『午後の日』であり、ブロンズでできています。
 
※岡本家の墓所には岡本一家について書かれた川端康成の碑が刻まれています。      

【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。


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◆歴史が眠る多磨霊園 http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/
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