未来予想が4割実現、手塚治虫も出入り 『多磨霊園に眠る発明家③ 医学・天文学・未来学』 田坂定孝×木村栄×林實

田坂定孝さんのお墓

様々な分野で発明・発見し、世界を驚かせた人たちがいます。まずは内科医学者の田坂定孝を紹介します。

 田坂定孝(たさか・さだたか)は、東京帝国大学を卒業後、新潟大学医学部第一内科教授、千葉医科大学教授を経て、母校の東京大学医学部教授として研究活動を行いました。

 1955年(昭和30年)頃から田坂を中心とするグループが自律神経に関する研究を初め、脊髄に特殊な微弱電気刺激を与えると脳卒中の後遺症が劇的に改善することを発見しました。6ヶ月以内の運動マヒはほぼ全例に効果が現れ、言語障害や精神症状、小児麻痺でさえも改善し、1病状によっては40~70%の確率で効果が出、脳卒中後遺症で半身不随の患者が回復したことにより、マスコミで「奇跡の療法」と紹介され話題となりました。これに伴い、1958年に保険医療として全国の国立大学病院で導入されます。ところが治療機器が高額であったこと、患者数と治療器の数が見合わず治療時間が充分に取れないこと、診療報酬が安かったことで病院経営の困難などの要因で、この療法はしだいに行われなくなり、70年代に入ると治療法は全国から消滅。幻の治療法となってしまっています。

 自律神経の研究と並行して日本人の平均体温値に関する研究も行い発表しています。10歳から50歳代の健康とみなされる男女3千人を対象に、午前、午後、四季を通じてデータを集め、様々な検証実験を行った結果、
健康な時の体温の平均値は36.89℃±0.34℃としました。現在はレアとなってしまった水銀体温計は、37度を示す数字が赤くされています。これはこの研究から平均的な発熱の基準とされたからです。

 田坂は胃カメラの発展と内視鏡医療の基礎を開拓した人でもあります。1898年にドイツ人医師が胃カメラ開発を試みましたが実用化は不可能でした。1949年に東大分院の医師からオリンパス光学工業に胃カメラ開発の依頼を持ち込まれたのをきっかけに開発が始まり、苦難乗り越え、1950年(昭和25年)細いチューブの先に小型カメラをつけて胃内に入れ、体外から操作して胃粘膜像を安全に直接撮影する「胃カメラ」(内視鏡)が日本で発明されました。その後も改良が重ねられ、1959年に田坂が日本胃カメラ学会(日本消化器内視鏡学会)を発足させ、胃カメラの発展と普及につとめました。

 天文学会で世界を驚かせた発見をし、「Z項」、別名を「木村項」として名を遺した天文学者は木村榮です。

木村榮さんのお墓

 木村榮(きむら・さかえ)は、石川県出身。旧姓は篠木(ささき)。同郷の木村民衛の養子となります。1892年(明治25年)東京帝国大学理科大学星学科を卒業。震災予防調査会の嘱託で北海道の地磁気測定に従事。その後、東京天文台の緯度変化を観測、ドイツ留学も行います。

 1899年から1941年まで岩手県水沢に創立された水沢緯度観測所(国立天文台水沢VLBI観測所)の初代所長となります。1902年に従来知られていた緯度変化の2つの変動成分X,Yのほかに、1年周期の第3成分Zを発見しました。この「Z項」発見は世界的な大偉業と称えられます。

 その後、国際天文学連合(IAU)と国司測地学地球物理学連合(IUGG)の緯度変化委員長。1922年から1936年まで水沢に万国緯度観測(国際緯度観測事業:ILS)中央局が置かれ局長に就任。1937年文化勲章を受章。没後、1970年に国際天文学連合により人工衛星で見付かった月面裏側のクレータのひとつを「キムラ:(Kimura)」と命名されました。

 最後に発明発見ではありませんが、未来学者の林實を紹介します。林實(はやし・まこと)は東京出身。父は陸軍中将の林桂。東京帝国大学文学部に入り、学徒動員され繰り上げ卒業。陸軍航空少尉として特攻隊員でしたが終戦を迎えます。戦後は内務省の事務官として働くも、解体後は経済安定局建設局に異動。総理庁事務官や内閣総理大臣官房審議室などを歴任しました。

林實さんのお墓

 この間、1960年に中曽根康弘が科学技術長官の時に、原子力・医学・宇宙などの各分野の第一人者を集め未来予想をしました。林自身も細かく分析、数字も入れて具体的に予想し独自で未来学を研究します。これらをまとめ科学技術庁監修として『21世紀への階段』を刊行しベストセラーとなりました。

 予想した135項目のうち、21世紀の現在は4割にあたる54項目が実現しています。例えば、携帯電話、高周波調理器(電子レンジ)、音声タイプライター、海水の真水化、人口授精、精子バンク、女性がGパンを着用する時代、栄養学を重要視する時代など。

 林は経済企画庁の観光行政の任にありましたが、その後も未来予想図・予測を統計的数字や細かい分析を元に発表し、多くのメディアに取り上げられ、コメンテーターとしての出演依頼や原稿執筆の仕事が殺到しました。

 手塚治虫も林邸に出入りしていたといいます。

田坂定孝  埋葬場所: 20区 2種 37側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/T/tasaka_sa.html

木村 榮  埋葬場所: 23区 1種 22側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/K/kimura_hi.html

林 實  埋葬場所: 7区 1種 1側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/H/hayashi_ma.html

【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。

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◆歴史が眠る多磨霊園 http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/
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