ソニーを創った天才エンジニアと支え育てた理解者 『多磨霊園に眠る発明家① ソニーの源』 井深大×植村泰二

井深大さんのお墓

多磨霊園には発明家も多く眠ります。まず、ソニー創業者の井深大を紹介します。

 井深大(いぶか・まさる)は栃木県出身。早稲田大学在学中に「光るネオン」を発明し、パリ博覧会で優秀発明賞を受賞します。卒業後、写真化学研究所の子会社ピー・シー・エル映画製作所に入り、日本光音工業株式会社への移籍を経て、1940年(昭和15年)日本測定器株式会社を立ち上げます。軍需電子機器の開発を行った縁で、戦時中の熱線誘導兵器開発中に盛田昭夫と知り合いました。

井深大さんのお墓

 戦後、1946年に盛田らを誘い東京通信工業株式会社(ソニー)を設立。資本金19万円は井深の義父の前田多門(多磨霊園に眠ります)と前田家と親交があった作家の野村胡堂(多磨霊園眠ります)が出資し、前田が名誉職の初代社長、井深は専務、盛田が常務となりスタートしました。ソニーは当初、真空管電圧計の製造・販売を行うことから始めましたが、1950年に日本初のテープレコーダー、1955年に日本初のトランジスタラジオを発表。新製品の開発と海外市場の開拓に力を注ぎ、ソニーを世界的な電機・音響製品メーカーに育てました。世界のソニーをつくった井深にも駆け出しの時代があります。井深を支え、育てた理解者が植村泰二です。

 植村泰二(うえむら・やすじ)は北海道出身。父は札幌麦酒・大日本麦酒の経営者の植村澄三郎(多磨霊園に眠ります)で、兄は経団連会長を務めた財界人の植村甲午郎(多磨霊園に眠ります)です。

植村泰二さんのお墓

 植村は北海道大学卒業後に、オリエンタル写真工業に写真乳剤の研究者として入社。後に取締役になります。1929年(昭和4年)増谷鱗と共同で現像とトーキーの光学録音の機材の研究。実際の撮影現場での録音の請負を目的として、写真化学研究所を設立し社長に就任しました。当時の日本の映画界は活動写真と言われ、「活弁」と呼ばれた「弁士」が映画館にいて無声映画のストーリーの説明をしたり、出演者のセリフを肉声でしゃべったりしているサイレント映画の全盛時代でした。しかし、これからの時代は、画面に応じて音や声が聞こえる「トーキー」製作の時代が来ると録音技術の発展向上を目指しました。

 1933年から劇映画の自社製作を開始し、国産フィルムによる初の映画にも挑戦していきます。更に録音・現像を写真化学研究所が行い、製作・配給を子会社として分離しピー・シー・エル映画製作所を立ち上げました。このピー・シー・エルの三十五ミリ部門が東宝映画の前身となり、十六ミリ部門が光学録音機械メーカー「日本光音工業」となります。植村は日本光音工業の社長も兼務しました。

 この頃、植村が社長を務める写真科学研究所に井深が就職活動に来ます。審査官の話を聞いた植村は、井深のケルセルの研究を高く評価し、その場で採用しました。しかし、井深の第一志望は東京電機(東芝)でした。ところが、東京電機が世界恐慌の影響もあり井深を不採用とします。それを知った植村は「責任を持たせて何でもやらせるから早くこい」と催促し、井深も「自分の才能を思う存分活かして活躍できるなら、それの方がいい」と思い入社を決意したといいます。

 1933年より井深は子会社のピー・シー・エルの社員となります。植村との約束では月給は60円で、これは東京帝国大学卒業者並みの高給待遇でした。しかし初任給は50円しか入っておらず植村にクレームを言うも一蹴され、結果で見返そうと仕事に専念。翌月は約束通りの60円となり、毎月5円ずつアップし、この年の暮れには90円になりました。一人前の技術者として新人ながら技術会議への出席が許されるまでに出世。技術者としてもっと専念したいと思った井深は植村に掛け合い、社長を兼務する日本光音工業へ移籍します。更に、日本光音工業の出資で、日本測定器株式会社を立ち上げ、植村が社長、井深は常務に就任しました。

 1937年写真化学研究所と、その子会社のピー・シー・エル、京都市太秦にあった大沢商会の映画スタジオのゼーオー・スタヂオ、阪急の小林一三が設立した東宝映画配給の4社が合併し、東宝映画を設立。植村が初代社長に就任しました。1943年に東京宝塚劇場を合併させ、現在の東宝株式会社となります。

 戦時中の劇場は風船爆弾の工場となり、戦後は進駐軍専用の劇場にさせられたことで、独自の活動ができず、井深は東京通信工業株式会社(ソニー)を設立していくことになります。また植村は増谷と再度、同名の「写真化学研究所」を共同で設立しました。

 1970年、植村が亡くなる一年前に、井深は写真化学研究所をソニー傘下に入れ、社名を「ソニーPCL株式会社」と変更し現在に至ります。

井深 大  埋葬場所: 17区 1種 8側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/ibuka_m.html

植村泰二  埋葬場所: 11区 1種 13側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/uemura_ya.html

【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。

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◆歴史が眠る多磨霊園 http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/
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