18年間の獄中生活、英雄視され衆議院議員に 『弾圧された共産党員と、その人たちを助けた人』徳田球一×志賀義雄×亀井勝一郎×栗林敏夫

徳田球一さんのお墓

民本主義や普通選挙運動に沸いた大正時代が終わり、元号も変わり昭和時代が始まった、1927年(昭和2年)田中義一内閣が発足します。金融恐慌や日中戦争へと足を踏み入れる騒乱の時期に、社会不安から労働運動が活発化。ロシア革命の成功に起因し、「帝国主義戦争反対。帝国主義戦争の内乱への転化」をスローガンに日本共産党の動きも激しくなります。

 1925年に治安維持法が成立してすぐに学生運動(全日本学生社会科学連合会事件)で検挙したのを皮切りに、1928年3月15日、治安維持法にもとづく日本共産党の一斉検挙(三・一五事件)を司法大臣の原嘉道が踏み切ります。結果、共産党幹部者を含め検挙者1568人、起訴488人を出しました。検挙された中には多くの多磨霊園に眠る人物たちがいました。社会運動家であり日本共産党指導者である徳田球一から紹介します。

 徳田球一(とくだ・きゅういち)は沖縄出身。1920年(大正9年)弁護士免許を取得するも、日本社会主義同盟結成に参加し、モスクワの極東民族会議に出席をします。帰国後に日本共産党創立に参加し中央委員になりますが、第一次共産党弾圧事件で検挙され、日本共産党は解党させられました。1924年党再建論をとなえ活動を行い、1928年総選挙に立候補します。同年に三・一五事件が起こり検挙されました。以後、獄中で18年間拘束され、終始転向拒否を貫きます。

 戦後、1945年10月10日GHQ指令に基づき釈放され、党再建活動を再開。非転向での解放は英雄とされ、その勢いで衆議院議員に当選します。しかし、1950年マッカーサー指令で追放され(レッドパージ)、中国に亡命しました。毛沢東やスターリンと会談をし支持を得るなど水面下で活動をしていましたが、1953年持病の糖尿病が悪化し北京で客死してしまいました。その死は1955年まで明らかにされず、発表された際には北京で追悼大会が行われ三万人が参列しました。徳田と共に検挙され獄中で18年間戦い続けた同志、また『獄中十八年』を共著した志賀義雄は、徳田の妻の徳田とくと日本とまだ国交がなかった中国に共産党員として初めて合法的に訪問し、徳田球一の遺骨を引き取りました。

 志賀義雄(しが・よしお)は山口県出身。旧姓は川本。東京帝国大学に入り、在学中に学生連合会を組織、1923年に日本共産党に入党しました。1925年卒業後、徳田らと党再建に従事し、中央常任委員として活動しますが、三・一五事件で検挙されてしまいます。18年間の獄中生活でも一貫して転向拒否を貫き、終戦後に徳田と共に釈放。党再建に参画し、衆議院選挙に当選しました。

志賀義雄さんのお墓

 1950年占領下の平和革命路線であった共産党をコミンフォルムが批判したことで、志賀は徳田らの武装闘争路線ではなく、「志賀意見書」を提出し反論して国際派に属しました。これが党内の反主流派とされ、党員資格を停止されて除名されます。また公職追放対象者にされ議員の地位も喪失。地下活動に入りました。1955年共産党が武装闘争路線を放棄したことを契機に再び出現し、共産党に復帰。衆議院議員選挙に出馬し当選しました。1964年に党議に反して部分核停条約批准に賛成し党から再び除名。除名された仲間たちと「日本のこえ」を創立し全国委員長になりましたが、共産党の支持基盤を失ったことで、4回連続当選をしていた選挙で初の落選。その後、同派は「平和と社会主義」と改称するも低迷してしまいました。

亀井勝一郎さんのお墓

  三・一五事件で検挙され人物には後に文芸評論家となる亀井勝一郎もいました。亀井勝一郎(かめい・かついちろう)は北海道函館出身。東京帝国大学在学中にマルクス・レーニンに傾倒し、社会文芸研究会、共産主義青年同盟に加わり労働運動を行ったことで逮捕されました。1930年10月1日転向上申書を提出し、10月7日に保釈されました。保釈後は、初め『プロレタリア文学』『現実』などに論文を発表し、プロレタリア文学の理論家として活動を展開します。のち、転向して日本浪曼派に属し、日本の伝統の中に自己と民族の再生の道を求め、古典・仏教美術に深い関心を寄せ文明批評を展開しました。著書に『大和古寺風物誌』『日本人の精神史研究』など多数。読売文学賞・芸術院賞・菊池寛賞を受賞。芸術院会員。

栗林敏夫さんのお墓

 治安維持法違反事件などで弁護人を務めたのは栗林敏夫です。栗林敏夫(くりばやし・としお)は秋田県出身。1930年(昭和5年)中央大学法学部を卒業し、弁護士となります。最高裁開設準備委員会幹事を務め、’46司法法制審議会幹事として、裁判所法などの法案起草委員も務めました。戦前、戦中に日本共産党の宮本顕治など同党幹部の治安維持法違反事件などで弁護人を務め、朝鮮人政治犯の釈放運動などでも協力しました。終戦後、政治犯として18年間獄中生活を送っていた徳田や志賀ら日本共産党幹部の出獄のため法的手続きを行い、GHQに掛け合い出獄の手助けを行いました。

徳田球一  埋葬場所: 19区 1種 31側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/T/tokuda_k.html
 
志賀義雄  埋葬場所: 25区 1種 76側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/S/shiga_y.html

亀井勝一郎  埋葬場所: 20区 1種 22側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/K/kamei_k.html

栗林敏夫  埋葬場所: 15区 1種 13側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/K/kuribayashi_to.html

【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。


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◆歴史が眠る多磨霊園 http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/
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