日本の共産主義化に多くの若者が共鳴 『共産党員を一斉検挙・治安維持法で国を整えようとした人たち』 田中義一×原嘉道

田中義一さんのお墓

戦前の日本には「治安維持法」という法律がありました。「国体ヲ変革シ、及ビ私有財産制度ヲ否認セントスル」結社や運動を禁止するため違反者に懲役10年以下の実刑を科しました、1925年(大正14年)法律46号として加藤高明内閣で成立。この法律が誕生した背景には、大正デモクラシーの要望に譲歩して普通選挙法が成立したことがあります。今までの内々の政治体制から、成人男性に選挙権を与え政治家を選ばせることを認める代わり、国家の意に反する者は逮捕弾圧するということで、普通選挙を反対する枢密院工作として同時に成立させた法律です。

 当時の日本(大正時代)の国を動かす政府の官僚たちは、国民の幸せより一部の人たちの都合を中心に考えていた傾向が強かったため、民衆を政治の根本におく考え方「民本主義」(大正デモクラシー)運動が活発で、普通選挙法成立に湧いていました。同じ頃、史上初の社会主義国家樹立につながったロシア革命(十月革命)は、ロシアを支配していたロシア帝国が、第一次世界大戦に参戦し、軍隊を国外へ派遣している隙にソビエト共産党が
「内乱」を起こすことで成功した革命が起こります。日本でも腐敗した政府を排除し、ロシアのように日本を共産主義化する国づくりをしようと動き出す人たちも現れてきました。そのれらの人たちが集まり、「帝国主義戦争反対。帝国主義戦争の内乱への転化」をスローガンに誕生したのが、日本共産党です。国外の戦争ではなく、国内への革命。当時の政権に対する反対勢力を結集するための号令であり、多くの若者たちが共鳴しました。

 政府は普通選挙実施の世論の声を尊重しつつも、脅威となる組織を押さえるべき法律も同時につくったという前提を押さえておく必要があります。案の定、共産主義勢力は学生運動にまで発展し、政府はそれを食い止めるべき治安維持法をかざして検挙していきます。そして、1928年(昭和3年)田中義一内閣は緊急勅令で法改正を行い、「国体変革」の罪には死刑をも適用することにしました。

 田中義一(たなか・ぎいち)は長州藩士田中信祐の3男。萩の乱に参加しましたが年少のため罪を免れ、陸軍に入ります。1886年(明治19年)陸軍士官学校卒業(旧8期)。日露戦争の際は満州軍参謀として出征。陸軍省軍事課長の時に「良兵即良民」主義を唱え、帝国在郷軍人会結成に尽力します。その後、陸軍大臣、政友会総裁などを務め、1927年に内閣総理大臣に就任しました。

 田中内閣が取り組んだことは金融恐慌対策、外交面では対中国政策に力を入れ、山東出兵や東方会議の開催など、大陸権益維持の政策を次々と打ち出しました。しかし、満州の関東軍は暴走し、独断専行で満州の実力者の張作霖の列車を爆破爆殺してしまいます。田中は当初、昭和天皇に「責任者を厳罰に処す」という旨の奏上をしましたが、周囲の反対で処分を軽微に済ませ、それが昭和天皇の不興を買って厳しく叱責され、田中は一連の流れの責任を取って内閣総辞職をしました。天皇からの叱責が相当応えたのか、3か月後に狭心症で急逝。なお、昭和天皇は自分の叱責が総辞職や死に至らしめるかもしれないという責任を感じ、その後は政府の方針には不満があっても口を挟まないと決意したといいます。

 このように田中内閣時は、金融恐慌や日中戦争へと足を踏み入れる騒乱の時期であり、社会不安から労働運動が活発化、革新陣営の政治活動も先鋭化してきました。そこで政府は1928年3月15日、治安維持法にもとづく日本共産党の一斉検挙(三・一五事件)を、田中内閣の司法大臣を務めていた原嘉道のもとで行います。

原嘉道さんのお墓

 原嘉道(はら・よしみち)は信濃国(長野県)出身。幼名は亀太郎。一度習ったことは絶対に忘れないという記憶力抜群で、10歳にして小学校を首席で卒業。私塾で学びながら母校の教壇にも立ったといわれます。16歳で上京。1890年に東京帝国大学法科大学英法学部を首席で卒業。農商務省に入り、入省二年目にして東京、大阪の両鉱山監督署長に抜擢。その後は念願の弁護士に転進し退官。1893年東京京橋に法律事務所を開業。経験を活かし主に鉱山関係・炭鉱事件などを担当。日本弁護士協会や国際弁護士協会設立に努め、法曹界の重鎮の一人となりました。田中内閣発足に伴い、弁護士生活35年の在野からの司法大臣就任は異例抜擢でした。

 三・一五事件の大掛かりな検挙で、共産党幹部者を含め検挙者1568人、起訴488人を出しました。その後も治安維持法による共産党の検挙を行い、原は共産党の検挙に重要な役割を果たした功績で、大臣辞任後は枢密顧問官になります。後に枢密院議長になり没するまで任ぜられました。原は日独伊三国同盟反対、御前会議で最後まで戦争回避を主張しましたが回避できず、太平洋戦争中の1944年8月に亡くなりました。没したその日に特旨をもって華族に列せられ、男爵の爵位と勲一等旭日桐花大綬章が追贈されます。これは最後の爵位授爵となりました。

田中義一  埋葬場所: 6区 1種 16側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/T/tanaka_gi.html

原 嘉道  埋葬場所: 10区 1種 1側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/H/hara_yo.html

【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。


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◆歴史が眠る多磨霊園 http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/
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