戦争批判した裁判官に有罪判決も 戦争に反対した人たちシリーズ3『様々な立場からの戦争反対』澤田竹次郎×小野徳三郎×徳永直×櫛田ふき

澤田竹治郎さんのお墓

今回は様々な立場からの戦争批判・戦争反対の行動を示した人たちを見ていきましょう。まずは、裁判官の立場で戦争批判をしたのは澤田竹次郎です。

 澤田竹次郎(さわだ・たけじろう)は岐阜県出身。1909年(明治42年)内務官僚として、福岡県事務官補、愛知県理事官、岩手・長野各県警察部長などを経て、1918年(大正7年)から行政裁判所評定官をつとめ、1942年同部長に就任しました。その時「軍閥はその本分にもとり政治、産業を壟断し、独善専横をきわめ、戦争終結の時期と方法につき無計画・無方針である。大東亜戦も完全にわがほうの負けだ。軍閥が自分勝手な戦争を始めて国民に迷惑をかけるのはけしからん」と太平洋戦争中に軍部批判をしました。そのため、1945年5月1日、東京憲兵隊に陸軍刑法違反で拘束されてしまいます。5月23日に保釈され、東京刑事地裁の禁固10ヵ月の有罪となりますが、上告中に敗戦し免訴されました。

 戦後、1946年行政裁判所長官となりますが、同裁判所が廃止され、以降、臨時法制調査会委員、地方制度調査会委員、公職資格訴願委員会委員長を務めます。1947年から最高裁判所判事に就任しました。

 小野徳三郎(おの・とくさぶろう)は三重県出身。海軍兵学校、海軍大学校を卒業し、海軍の教官、佐世保海軍工廠部員、フランス駐在、造船監督官、呉工廠造機部部員、広島工廠機関研究部長、横須賀工廠造機部長、広島工廠長、海軍工機学校長と歴任し、海軍中将まで昇進をしました。同時並行に、生粋のクリスチャンとして、赴任する先々で教会設立に尽力し、長老として仕えます。

小野徳三郎さんのお墓

 1935年に予備役となり、1943年青山学院の第8代院長に就任しました。太平洋戦争中の軍事教練の教官の前で戦争批判をしました。軍人とクリスチャンの立場を分けて活動をしてきましたが、軍人職を離れたことで本音が出てしまったのでしょう。しかし、海軍中将の肩書きのため大ごとにはならず、免職を免れました。

 徳永直(とくなが・すなお)は熊本県出身。乏しい小作人の長男として生まれたため、小学生の時から印刷工や文選工などで働き家計を助けました。熊本煙草専売局で働いていた時に同僚の影響で文学や労働運動に身を投じ、1920年(大正9年)熊本印刷労働組合創立に参加しました。

徳永直さんのお墓

 1922年山川均を頼って上京。博文館印刷所に植字工として勤務しながら、小説を書き始め、『無産者の恋』を組合の雑誌に発表。1926年共同印刷争議で指導的メンバーとして活躍しましたが敗れ、同僚1700人とともに解雇されてしまいます。1929年(昭和4年)この体験に基づく長篇小説『太陽のない街』を「戦旗」に発表、労働者出身のプロレタリア作家として一躍注目を集め、ベストセラーとなり、映画化や戯曲化、また世界各国で翻訳出版されました。

 「全日本無産者芸術連盟」(ナップ)に参加。作家生活に入り、1930年『失業都市東京』、1932年『ファッショ』などを発表。社会主義思想や共産主義思想が強いプロレタリア文学は当局に目をつけられ、小林多喜二の虐殺や弾圧の強まる中で動揺し、1933年に中央公論にて『創作方法上の新転換』を発表。日本プロレタリア作家同盟を脱退し、働く庶民の生活感情に根ざした作品を発表するようになります。1943年『光をかかぐる人々』は日本の活版印刷の歴史をヒューマニズムの観点から淡々と描くことで、戦争と軍国主義を暗に批判しました。

 ストレートな批判ではなく、変化球で批判をする技巧派。基本的には労働者の運動を支持する立場をつらぬきましたが、特定の知識人・趣味人だけのものであった文学が労働者に受け入れられるきっかけをつくり、小説の読者層を大きく変えたと評価されています。

 櫛田ふき(くしだ・ふき)は山口県出身。外語大学教授であった父の山口小太郎の弟子であった、経済学者の櫛田民蔵と結婚。しかし、1934年(昭和9年)民蔵は亡くなってしまい、ふきは35歳で未亡人となってしまいました。仕立物や保険の外交をしながら二人の子供を育てました。作家の宮本百合子に「女手一つで子どもを育てあげたあなただから頼みたい」と励まされたことが、戦後、女性・平和運動に飛び込むきっかけになりました。

櫛田ふきさんのお墓

 戦後、1946年婦人民主クラブの結成に参加、初代書記長に選ばれ、3年後には委員長に就任。1955年の第1回日本母親大会では議長団、その他、婦団連会長、新日本婦人の会結成に参加し代表委員、全国革新懇世話人、原水爆禁止世界大会議長団などを歴任します。

 白寿を迎えても「戦争と核兵器のない世界に」と先頭に立ち、1999年(平成11年)に行われた戦争法案反対の「銀座デモ」を呼びかけ、満百歳にして自らも参加しました。

澤田竹治郎  埋葬場所: 20区 2種 37側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/S/sawada_t.html

小野徳三郎  埋葬場所: 10区 1種 4側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/ono_to.html

徳永 直  埋葬場所: 19区 1種 24側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/T/tokunaga_s.html

櫛田ふき  埋葬場所: 11区 1種 19側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/K/kushida_h.html

【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。


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◆歴史が眠る多磨霊園 http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/
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