
「君死にたまふこと勿れ」(きみしにたもうことなかれ)
1904年(明治37年)9月に与謝野晶子が日露戦争開戦7か月経った時に、雑誌『明星』に発表した反戦詩です。この詩には副題が付いており、「旅順口包囲軍の中に在る弟を嘆きて」とあります。詩も「あゝをとうとよ 君を泣く 君死にたまふことなかれ」で始まり、新妻を残して出征した弟への愛をこめて作ったもので、真実を詠った詩は、当時の社会に投じた波紋は小さくはなかったといいます。現代では戦争に対する悲哀と評価されていますが、当時は非国民・反戦的人道主義者などの評価を受けました。
与謝野晶子(よさの・あきこ)は大阪堺出身。誕生した時の名前は鳳志よう。9歳で漢学塾に入り、琴や三味線を習い、堺市立堺女学校に入学すると「源氏物語」などを読み始め古典に親しみます。更に兄の影響で小説なども読むようになり、20歳のころに和歌を投稿するようになりました。最初のペンネームは鳳晶。歌会に参加するようになり、そこで歌人の与謝野鉄幹と知り合い不倫関係になります。鉄幹が創立した新詩社の『明星』に短歌を発表。上京し、女性の官能をおおらかに謳う処女歌集『みだれ髪』を鳳晶子名義で刊行し、浪漫派の歌人としてのスタイルを確立しました。のちに鉄幹と結婚し、与謝野晶子の名となり、子供を12人出産しました。
1904年に『君死にたまふことなかれ』を発表しますが、この詩の3連目「君死にたまふことなかれ すめらみことは 戦ひに おほみずからは出でまさね」(天皇は戦争に自ら出かけられない)という表現が問題とされ、批判されたことに対し、晶子は「歌はまことの心を歌うもの」と反論しました。日露戦争時は太平洋戦争時とは異なり言論弾圧がそこまで激しくなかったことが幸いし論争は終結。
以降は、小説・童話・感想文など多方面にわたる活動を示し、1911年には史上初の女性文芸誌『青鞜』創刊号に「山の動く日きたる」で始まる詩を寄稿。翌年は『新訳源氏物語』全4巻を出版。文学のみならず教育・婦人・社会問題に関する著述も多く、見識ある指導者としての役割も果たしました。
内村鑑三(うちむら・かんぞう)は江戸小石川出身。高崎藩士・儒学者の内村宜之の長男として生まれます。
札幌農学校第2期生として入学。最初は水産学を専攻し、卒業後も北海道開拓使民事局勧業課に勤め水産を担当していましたが、開拓使が廃止されたことや、札幌基督教会の創立に関わったことで、キリスト教伝道者の道へと進みます。米国の神学校で学び、帰国後、新潟県の北越学館に仮教頭として赴任。内村が学校行政を指摘する意見書を出したことで、外国人宣教師らと対立が起こり、学生も巻き込んだ学館紛争に発展。内村は赴任4か月で辞職し、東京に戻りました。
1890年第一高等中学校の嘱託教員となります。翌年、教育勅語の奉読式で天皇の署名のある勅語に教員及び生徒が最敬礼をする際、内村は軽く頭を下げてすませ降壇し、最敬礼をしなかったことが、礼拝を拒んだとされ、各界から「非国民」として非難が起き、キリスト教と国体の問題へと進展、不敬事件として社会問題となりました。内村自身も反論を展開するも世論は味方せず失意の中にいた時に、処女作『基督信徒のなぐさめ』を執筆し、「無教会」という言葉を初めて使用します。
1897年朝報社に入社し新聞「萬朝報」の英文欄主筆を経て、翌年『東京独立雑誌』を創刊し主筆となりジャーナリストとして独立します。部数も伸び経営が安定していましたが、社員と対立してしまったことで、第72号で突如廃刊され解散。以降は、聖書にのみ基づく、〈無教会主義〉を唱え、その伝道・学問的研究・著述活動を精力的に行いました。
1903年日露戦争開戦前にはキリスト者の立場から非戦論を主張。『戦争廃止論』を「萬朝報」で発表。日露非開戦論・戦争絶対反対論を展開しましたが、世論の主戦論への傾きを受け、萬朝報も主戦論に転じると、萬朝報客員を辞しました。非戦論は内村や柏木義円など極めて少数でありキリスト者の間でも孤立しましたが、「聖書之研究」を通じて非戦論を掲げ続けました。そんな戦争反対を強く訴えていた時に、内村の前に徴兵を拒否したいという若者が訪れました。内村はその若者に対して兵役を促したのです。非戦論思想における「戦争政策への反対」と「戦争自体に直面したときの無抵抗」という二重表現は、あらゆる暴力と破壊に対する抗議を表明すると同時に、「不義の戦争時において兵役を受容する」という行動原理を明確にしました。
与謝野晶子 埋葬場所: 11区 1種 10側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/Y/yosano_a.html
内村鑑三 埋葬場所: 8区 1種 16側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/uchimura_k.html
*与謝野鉄幹(左側)・晶子の墓(右側)
鉄幹の七周忌のあと、晶子は昭和十七年五月二十九日に六十五歳の生涯を閉じました。 のちに、知人・門人の手によって墓が建立されます。台座の上に歌が刻まれています。
鉄幹 「今日もまた すぎし昔と なりたらば 並びて寝ねん 西のむさし野」
晶子 「なには津に 咲く木の花の 道なれど むぐらしげりて 君が行くまで」
*日本初の洋型墓石「内村鑑三墓」
正面下に墓碑銘「I for Japan, Japan for the World,The World for Christ, And All for Gad.」の自筆が刻む。
【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。