「敵艦見ゆ」無線通信機を開発した日露戦争の影の立役者 木村駿吉×松代松之助×池田武智×鯨井恒太郎×浅野應輔

木村駿吉さんのお墓

1905年(明治38年)5月27日から28日にかけて東郷平八郎(多磨霊園に眠ります)率いる連合艦隊とロシアのバルチック艦隊が激突し、バルチック艦隊の艦艇のほとんどを損失させるという海戦史上稀に見る勝利を収め日論戦争の勝利に導いた日本海海戦。日本の勝利を決めたのが、信濃丸がバルチック艦隊を発見し「敵ノ第二艦隊見ユ」と通報したことで直ちに出港が出来、迎え撃つことができたためとされます。発見し通報した信濃丸の功績も大きいですが、この無線通信機を開発した人も影の立役者です。

 木村駿吉(きむら・しゅんきち)は江戸出身で幕臣の木村芥舟の次男として生まれます。1888年東京帝国大学理科大学物理科を卒業し、第一高等中学校教諭となりますが、内村鑑三(多磨霊園に眠ります)が起こした不敬事件のあおりを受け、同じクリスチャンで内村の推薦者だったことで同罪とされ教員を追われます。その後、米国のハーバード大学やイェール大学に留学し、帰国後は第二高等学校教授となり、1900年から海軍教授・技師となりました。兄で海軍少将の木村浩吉の仲立ちで無線電信調査委員に任命され、松代松之助や池田武智らと共に日本海軍式無線電信の通信開発を行い約8哩の距離で成功。1903年に三六式無線電信機が採用されました。この無線によって信濃丸からの発見通報に繋がります。また艦船間の情報交換も可能となりました。

松代松之助さんのお墓

 無線電信機を一緒に制作した松代松之助(まつしろ・まつのすけ)は京都出身。1886年に東京に出て工学を学び、逓信省通信技師となり電気試験所に入ります。1895年頃に蓄電器の需要が増大したため、蓄電器用パラフィン紙の雁皮紙の製造法を、池田武智と共に行いました。この頃、マルコーニが無線電信実験に成功したことを知り、電気試験所長の浅野応輔は電信主任だった松代にヘルツ波無線電信の研究を命じます。実験用部品を自作し、コヒーラの研究から始め、1897年11月に築地海岸に送信機を設置し、受信機を小船に乗せて1.8kmの通信に成功しました。翌年12月、月島と第5台場間(3.3km)において自ら開発した無線電信機を使って双方向の通信実験に成功。通信距離は徐々に伸び、1903年には1170kmの通信が可能となりました。海軍とは別々に研究をしていましたが、1900年に松代は海軍省に移り、1901年木村や池田と共に三四式無線電信機を開発に成功。木村が更に改良し三六式の開発に繋がりました。

 池田武智(いけだ・たけとも)は蓄電器用パラフィン紙の雁皮紙の製造法を松代と行った後、紙蓄電器の絶縁抵抗が歳月を経るに従い著しく低下する原因がパラフィンとの関係と推察し、絶縁低下を防御する方法を見つけ出しました。1899年に海軍が無線電信調査委員会を設置し委員附嘱託通信技手として参加。そこで、木村と松代らと海軍式無線電信機の研究を行い、三六式無線電信機開発に繋がります。

池田武智さんのお墓

 日露戦争後の1906年には東京小笠原間の海底ケーブルが出来て米本土との直接通信が可能となり、世界最初の送受信同時に可能な無線電話機が出来上がります。この時に多大なる協力をしたのが無電学者の鯨井恒太郎で、鯨井のところに出入りしていた八木秀次は後に八木アンテナを開発。以降、岡部型マグネトロンと次々と日本人は世界的成果を挙げることとなります。

鯨井恒太郎さんのお墓

 鯨井恒太郎(くじらい・つねたろう)は東京出身。東京帝国大学を卒業後、逓信省電気試験所所員を経て、母校の教授となります。1924年(大正13年)東京市電気研究所初代所長を兼任。真空管発達以前から無線通信工学に取り組み鉱石検波器の研究で業績をあげ、無線電話機、周波数変換装置を発明、理化学研究所では電気絶縁材料の研究を指導しました。整流器、電気集塵(しゅうじん)機、白熱電球利用の光通信機など多くの発明・特許があり、権利化の重要性を先駆けて行ったことでも著名です。

浅野應輔さんのお墓

 最後に上記のメンバーたちの先人、浅野應輔(あさの・おうすけ)は備中(岡山県)出身。医師の大野意俊の3男として生まれ、4歳の時に叔父の浅野玄岱の養子となります。1881年工部大学校電信科を卒業し、母校の助教授となるも、1884年に逓信省に転任。東京電信学校校長などを務めます。電信電話の弱電流工学から電灯電力の強電流工学の研究に精通し、日本の電気工学の権威と称されました。1894年に欧米に留学し、大西洋横断海底ケーブルの工事を視察。帰国後、1897年長崎・台湾間の海底電線敷設を指導し完成させています。電気単位や電気事業取締規制などの制定にも尽力しました。

木村駿吉  埋葬場所: 7区 1種 5側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/K/kimura_shu.html

松代松之助  埋葬場所: 2区 1種 7側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/M/matsushiro_m.html

池田武智  埋葬場所: 7区 1種 12側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/ikeda_ta.html

鯨井恒太郎  埋葬場所: 22区 1種 8側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/K/kujirai_t.html

浅野應輔  埋葬場所: 8区 1種 7側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/asano_o.html

【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。

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◆歴史が眠る多磨霊園 http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/
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