
太平洋戦争後、連合国が日本の戦争指導者の責任を訴追し、処罰するために極東国際軍事裁判(東京裁判)が行われたことは有名です。その際「平和に対する罪」で訴追された者をA級戦犯と呼び、東条英機以下 28名が起訴され、絞首刑7名、終身禁錮刑16名、禁錮20年1名、禁錮7年1名の判決が下されました。同時に連合国7カ国は東アジア各地において、国家の指導的立場にあった重大戦争犯罪人として、「通例の戦争犯罪」を犯したB級戦犯、「人道に対する罪」を犯したC級戦犯と呼び訴追。被告となった日本人は5700人にのぼり、死刑984人、無期刑475人、有期刑2944人、無罪1018人が裁かれました。戦勝国の裁判という名の報復において、BC級戦犯として死刑に処せられた山下泰文と谷寿夫を紹介します。
山下奉文(やました・ともゆき)は高知県出身。開業医の山下佐吉の次男として生まれます。長男の山下奉表は海軍軍医少将で多磨霊園の別地に眠ります。陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業。オーストリア大使館兼ハンガリー公使館付武官、陸軍省軍事課長などを経て、1935年(昭和10年)陸軍省軍事調査部長に就任。翌年の二・二六事件の勃発に際しては反乱軍に対して好意的立場をとったと誤解され、朝鮮の第40旅団長に左遷されます。1937年日中戦争が起こり中国北部へ出征。同年、北支那方面軍参謀長に就任。第4師団長、航空総監、関東防衛軍司令官、第25軍司令官を拝命し太平洋戦争が勃発。開戦直後、史上まれな名作戦でマレー・シンガポールを短期で攻略し、イギリス軍を降伏させ、「マレーの虎」と報道されるなど世界的に勇名を馳せました。
開戦前のシンガポールはアジアにおけるイギリス軍のシンボル的な存在でした。日本陸軍としてもシンガポールを攻め落とすことは、南方攻略の成否を決めるもので最重要作戦のひとつです。マレーのイギリス軍司令官はA・E・パーシバル中将。世界中に植民地を持ち日の沈まない国と称された大英帝国軍が、たった二週間で山下率いる第25軍に陥落されました。パーシバルは停戦交渉をするため会談をもうけます。交渉は難航し、通訳も不慣れで、業を煮やした山下は無条件降伏を求め居丈高にテーブルを叩いて「そちらは降伏するのかどうか。 イエスかノーか、はっきり返事をもらいたい」と即答を迫り、この強引な説得工作により、パーシバルは降伏し、日本側の捕虜となりました。というのは通説で、実際は通訳に対して「余計なことは聞かなくてもいい、君はただイエスかノーかだけ聞けばいい」とちょっと強い言葉で言ったというのが、戦後本人が語った談です。
とは言え、このシンガポール攻略の成功は、日本軍にとって大きな戦果となり、捕虜の数は、推計10万人以上。 捕獲した各種火砲740門、乗用車・トラック約1万台でした。こういった人的・物的戦果ばかりではなく、東洋におけるイギリスの象徴ともいえるシンガポールの陥落は、アジアにおける日本のイギリスに対する完全な勝利ともみなされました。これは裏を返せば、イギリスは有色人種に初めて敗北した屈辱でもあります。
山下はその後、満州の第1方面軍司令官を経て、フィリピンの第16方面軍司令官となり、マッカーサー率いる米軍と戦っている時に終戦を迎えます。敗戦後の降伏調印の席にはパーシバルも同席していました。パーシバルは山下に降伏した後、捕虜として日本に送られ、終戦とともに釈放、再びマレー英軍司令官として舞い戻ってきていたのです。出席義務がないパーシバルの同席は山下に対する報復意識からです。山下はフィリピンのマニラにて軍事裁判にかけられ、フィリピン全土にわたる日本兵の住民虐殺・拷問・略奪・殺人などの身に覚えのない罪名で死刑判決を受けます。これに関して「私に責任がないわけではない」「私が自決したのでは責任を取る者がいなくて残った者に迷惑をかける」と一切の弁明を行わず、紳士的な態度を貫きました。原告側からも同情的な意見も出、弁護団も判決を不服とし死刑執行の差し止めと人身保護令の懇願をしましたが、アメリカ最高裁は6対2の投票で却下し絞首刑に処せられ、1946年2月23日マニラ郊外ロス・バニヨスにて処刑されました。
谷寿夫(たに・ひさお)は岡山県出身。陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業。この間、日露戦争に従軍。イギリス駐在武官となり、第1次世界大戦の西部戦線に従軍。インド駐在武官や陸軍大学の兵学教官を経て、参謀本部付となり国連に派遣され、国連陸空軍代表となります。その後、軍事調査委員長、近江歩兵第2旅団長、東京湾要塞司令官を歴任し、1935年(昭和10年)第6師団長(熊本)となり、翌年、松井石根司令官率いる中支那方面軍の隷下として第6師団も南京攻略戦に参軍しました。このとき、南京事件(南京大虐殺)がおきたとされています。南京攻略戦の成功により、同年末に中部防衛司令官に任命され、二年後に予備役となりました。
太平洋戦争終戦間近に、第59軍司令官兼中国軍管区司令官として復帰。戦後、BC級戦犯とし南京大虐殺の責任を問われ、中国側に身柄を拘束、南京裁判にかけられ蒋介石により処刑されました。
南京事件の際の筆頭は松井石根陸軍大将であり、A級戦犯として東京裁判で死刑となります。しかし、南京軍事法廷でも南京事件の報復として裁きたかった中国側は、起訴する軍人を探します。南京事件は中島部隊(第16師団)が起こしたことでしたが、中島今朝吾は既に死去していました。松井石根につぐ責任者である上海派遣軍司令官の朝香宮鳩彦王は皇族であり不起訴となり、谷の上司である第10軍司令官の柳川平助も既に死去していました。結果的に、生き残っていた谷に責任がまわり罪をかぶせられたのです。
山下奉文 埋葬場所: 16区 1種 8側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/Y/yamashita_tmyk.html
谷 寿夫 埋葬場所: 13区 1種 21側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/T/tani_hi.html
※墓石は「山下奉文墓」。墓所右手には大きな山下奉文の碑が建ちます。妻はヒサ。二人には子がなかったため、兄の山下奉表の子の山下九三夫を養子に迎えました。山下九三夫は東洋医学家で、東海大学医学部麻酔学科教授、国立病院医療センター麻酔科に務め、鍼灸とハリ麻酔の権威として活躍しました。
【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。