終戦工作を行った海軍大将 軍人シリーズ2 『太平洋戦争の敗戦によって証明された井上成美の5度の反対』 井上成美

井上成美さんのお墓

井上成美の部内評は”切れ者”でした。40年の海軍の履歴の中で井上成美は5度、日本もしくは海軍の転機に直面し、いずれもいわゆる「流れ」に生命がけで反対しています。 結果において、すべて井上成美の説が正しかったのですが、それは不幸にして太平洋戦争の敗戦によって証明されました。

井上成美さんのお墓

 井上成美(いのうえ・しげよし)は宮城県仙台市出身。1909年(明治42年)海軍兵学校卒業(37期・恩賜)。海軍大学校卒業後、イタリア大使館付武官などを歴任し、軍務局長や第四艦隊長官などを経て、航空本部長に就任。海軍次官にすすみ、米内光政海相の終戦工作を助けた、海軍大将。

 まず1つ目の反対は「軍令部の改定を断固反対」したことです。海軍は陸軍にならい、人事と予算の大幅な権限移譲を海軍省に求め、軍令部の権力拡大を計った改定案に対して、海軍省の課長職であった井上は強硬に反対します。海軍大臣の部下でもなく、監督権も及ばず、しかも憲法上の責任は問われない軍令部長に、人事と予算を任せることは、第一に憲法政治の原則に悖(もと)り、第二に専門家集団たる軍令部の独走を許し、果ては戦争につながる危険があると主張したのです。周囲から説得され、または脅迫されるも、断固として捺印をしませんでした。結局、井上は異動させられ後任の課長が捺印をします。以後、軍令部をチェックすべき海軍省の力が弱体化させられ、軍令部の独走を許し、陸軍と同調して戦争に突入していったのです。

 2つ目の反対は「三国同盟締結への反対」です。海軍省軍務局長であった井上は、海軍大臣であった米内光政と次官の山本五十六と共に、日独伊三国軍事同盟締結に反対しました。井上は若い頃より欧米に駐在・滞在した経験が豊富であり、反対には経験による裏付けがありました。「目的は手段を正当化する」というドイツの国民性や民度の低いイタリアの国民性を熟知していた反面、イギリスやフランスのノーブレス・オブリージュの気概、アメリカ市民のデューティに対する真摯さ、国土のポテンシャルの高さを肌で感じ、これら経済的・軍事的・心理的要素の他に、自らの国家観、戦争観に照らして根本的な反対理論を持っていました。また三国軍事同盟条約中にある「自動参戦」の義務条項に対し絶対相容れぬものであったのです。結果的に、井上・米内・山本の三名が中央からいなくなった後、三国同盟は締結され、日本は一気に戦争への道に突入していきます。

 3つ目の反対は「艦隊決戦思想(大艦巨砲主義)を反対」です。支那方面艦隊参謀長を退任し、一年ぶりに海軍省に戻ると、省内は三国軍事同盟締結でドイツと組んでいれば天下何者も恐るるに足らずとする英米軽視の空気が濃厚でした。しかも、出席した首脳会議の席上で提出された海軍軍備充実計画案は、アメリカの軍備計画に追従した国情にそぐわない内容。この空気感に対して井上は「戦艦不要・海軍の空母化」を骨子とした「新軍備計画論」を大臣に提出。海軍軍備計画を根本的に改定することを訴え、更に「日米戦争ノ形態」と題し、きたるべき日米戦争の推移を予測し、アメリカによる海上封鎖の危険性を明言しました。更にこれからの戦争は船の大きさではなく、航空戦備の重要性を説き、「海軍航空戦備の現状」と題する意見書を書き上げ配布しました。しかし、井上の想起した資料は次官室の金庫に眠ったまま無視され、この年の12月より太平洋戦争が勃発します。

 4つ目の反対は「敵性語(英語)廃止の時流に反対」です。海軍兵学校校長となり、まず取り掛かったのは、対米戦争に突入させた国賊と呼びたいような大将たちの掲げられていた写真を全部はずさせることからでした。そして次に「教育漫語」と名付けた小冊子三冊にまとめた教育方針を教官に配布。これには兵学校教育はすぐに役立つ丁稚をつくるのではなく、将来大木に育ち得るポテンシャルを持つ学士、ジェントルマンを養成するものでした。よって、英語、数学などの普通学を重視し、特に敵性語(英語)廃止の時流に強く反対しました。むしろ英語教育は一つの技術修得であり、世界中どこにいっても適用できる人材育成として全生徒に英英辞典を持たせました。これに対して、士官搭乗員の急速養成の必要から、兵学校生徒の繰り上げ卒業を強く要求する海軍中枢に対しても反対の意思を示しました。井上の教え子たちの戦後の活躍がそれを裏付けています。

 5つ目の反対は「自らの昇進の反対」です。1944年8月5日、米内海軍大臣に強く請われ、兵学校校長を退任し、海軍次官に就任。就任して23日目、井上成美は大臣室の米内に、現在の状況のひどさと、日本はアメリカに負けることを明言。戦争終結に向けた工作を内密に始めることの承諾を得ます。本格的日本本土空襲が予想された昭和20年初頭、一刻も早く終戦にしなければならないそんな折、米内に呼ばれ「大将進級」「大臣就任」を奨められます。しかし、井上は断固として反対の意思を伝えます。海軍次官は海軍省と軍令部の間に立つ要職であり、終戦工作を密かに行う上でどちらにも顔が利くポストであったからです。また、次官職は中将の配置ポストであるため大将になるということは次官を辞めるということも意味していました。大将進級は一応取り止められましたが、三度目の反対意見提出も空しく、強引に大将に進級させられ次官を退官させられます。米内から「大将の件、陛下が御裁可になった」と伝えられ、井上自身も陛下からでは仕方がないと受け入れたといいます。

井上成美さんのお墓

井上成美  埋葬場所: 21区 1種 3側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/inoue_shi.html

*多磨霊園の井上家本家の墓は井上家の嫡男となった井上秀二が継いだ。井上秀二は土木技術者として活躍した人物。8男であった井上成美は結婚後分家されたと推測しますが、妻が亡くなり、娘が嫁いで、戸籍の構成員が成美だけになったため、本家の墓に眠ることとなります。よって、墓所には井上成美と前妻の喜久代、後妻の富士子も眠っています。

【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。


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◆歴史が眠る多磨霊園 http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/
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