降格人事を自ら了承し戦争へ 軍人シリーズ1 『徹底倹疫・台湾の近代化・日露戦争のプロデュース』 児玉源太郎

児玉源太郎さんのお墓

日本の軍人は野蛮で悪者。戦後の日本では現代の価値観で当時の軍人を見てしまうため全てが悪人のように映るかもしれません。しかし、その軍人も当時の価値観の中で、日本人として日本のために尽くしていたのも事実です。多磨霊園にも数多くの軍人が眠っています。その中で、秀逸な軍人を取り上げ紹介したいと思います。

 児玉源太郎(こだま・げんたろう)は周防国都濃郡徳山村(現在の山口県周南市)出身。藩の献功隊士として戊辰戦争に参加。フランス式歩兵学修業を命じられ、京都の河東操練所に入所、大阪兵学寮でも学びます。佐賀の乱、神風連の乱、西南戦争に従軍し、明治新政府軍の陸軍軍人として活動。その後も日清戦争、日露戦争で陸軍参謀長を務め、陸軍大臣など数多くの役職に就いた智謀と称された陸軍大将です。

児玉源太郎さんのお墓

 児玉源太郎のトピックは3つあります。まず1つ目は、1895年(明治28年)日清戦争終結で帰国する凱旋将兵23万人に検疫を行ったことです。日清戦争では、清国軍が63万人、日本軍は24万人で戦い、結果、日本が勝利しましたが、戦病傷者数を見てみると、清国が約3万5千人、日本は17,069人です。日清戦争時の日本人の死傷者数のうち、約12000名が病死で亡くなりました。実際の戦いで戦死・戦傷したのは、1417名のみです。ほとんどの将兵が命を落とす原因となったのは伝染病でした。戦場の劣悪な環境で戦った凱旋将兵の体を汚染しているはずのコレラ、痘瘡(とうそう)、腸チフス、赤痢などの伝染病のばい菌を治癒せず戻ってくれば、一般国民に伝染して底知れぬ災害をもたらす恐れがありました。

 児玉はこの時、陸軍次官、軍務局長を兼ねていましたが、検疫施設の必要性を説き検疫部長に就任。広島の大本営に臨時陸軍検疫部を設置し、将兵を乗せた軍艦や輸送船が接岸する前に検疫と治療、消毒の強力な水際作戦を展開します。ひとつ不安がありました。自分よりも階級が上の将兵が消毒を拒否した場合です。そこで、凱旋第一陣に乗り合わせていた小松宮彰仁親王に拝謁し、最初に新王自身に検疫と消毒の必要性と承諾を得ます。新王はすぐに承知し検疫を受けたことで、以下、上級軍人含めすべての凱旋将兵は検疫を受ける結果となりました。日清戦争の裏側には船686艘、人員23万2千346人の消毒、物件90万個の世界初の大検疫があったのです。

 1898年(明治31年)児玉は第4代台湾総督に就任しました。着任した際に「私の任務は台湾を治むるにあって、征討するに非ず」と台湾の近代化に取り組んだのです。まず、上下水道と病院を設置して衛生面を改善、斡旋道路・鉄道・港湾など交通網を整備、さらに製糖業、林業など基幹産業の復興に努めました。そこに欧米的な搾取の思想はなく、近代化によって日本、そしてアジア全体の力を高めようとしたのです。特に土匪の首領に自分の考えを説き恭順させます。軍隊が前面に出た統治ではなく、地元の人々との宥和を強調し、帰順した土匪には道路工事の仕事を与えるなどして治安向上を図りました。また折を見ては諸方を巡回し、各地の有力者や古老と積極的に交流。児玉の姿勢は現地の人々からも支持され、これにより年間700万円近くの台湾の財政赤字は、1905年には実質的な黒字化となり財政面の独立を果たし、台湾は奇跡的な発展を遂げました。

 児玉は台湾総督と兼務し、さらに陸軍大臣・内務大臣・文部大臣も兼務していました。この頃、日本とロシアの関係が悪化しており緊迫した状態です。ロシアとの開戦間際に、児玉は自ら大臣を辞して降格人事を行い陸軍参謀部次長に就任しました。大戦争は国がひとつになり機能的なチームワークがなければいけません。

 当時の明治権力の主流である薩摩と長州、陸軍と海軍の間に亀裂が生じないようにすること。国軍内部では中央と現地の関係を正常化すること。こうしたコーディネーター(調整役)の存在が不可欠でした。また当時の参謀総長は大山巌元帥で陸軍最長老の一人であり薩摩出身。国軍創設者である元老の山県有朋元帥は長州出身。この間を取り持つ参謀次長も必要で、その任に児玉が就いたことで薩長間の調整がとれるようになりました。更に、首相や長州閥の大幹部は慎重論・非戦論に傾いており、国民の世論や参謀たちは戦争必至でした。児玉はこうした政界首脳や国内全般のコーディネーターとなり、首脳部への根回し、戦争の準備に着手することを決断させました。1904年に日露戦争が勃発すると、児玉は満州軍総参謀長となり、陸海軍を円滑にする潤滑油役に徹し、陸海軍の連携プレーに全力を傾注。「南山の戦い」「旅順要塞攻撃」「奉天大会戦」と活躍し、バルチック艦隊の到来を前に、旅順艦隊の息の根を止めました。そして、最後の仕上げは、「戦争の早期終結」です。戦争は戦闘に勝つことだけにあるのではなく、戦争目標の最終段階を設定することです。児玉は奉天大会戦で勝利をおさめると、ひそかに帰国します。そして桂首相や寺内陸相などの政界の巨頭に働きかけました。「陸軍の軍事力に限界がみえた。いち早く、外交手段で終結するように」と。

児玉源太郎  埋葬場所: 8区 1種 17側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/K/kodama_ge.html

※墓所は正面に巨大な和型墓石が二基建つ。左側が「陸軍大将子爵兒玉源太郞卿之墓」、右側が「陸軍大将兒玉源太郞室松子墓」。墓所左側に「児玉秀雄墓」、右側に「児玉家之墓」、そのやや左後ろに墓誌がある。

※児玉源太郎と松子との間には7男4女(1養女)を儲ける。長男は大蔵官僚で国務大臣などを歴任してきた児玉秀雄、秀雄の婿養子の児玉忠康は日本郵船社長を務めた実業家、忠康の子で曾孫の4男とも同墓に眠り、進は映画監督で活躍した。

【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。


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◆歴史が眠る多磨霊園 http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/
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