
亡くなり方は様々なありますが、今回は珍しい死に方をしてしまった人を紹介します。
歌舞伎俳優の8代目坂東三津五郎は食通ぶりが仇となり、1975年(昭和50年)京都の割烹でトラフグの肝を4人分も食べて、フグ中毒で亡くなってしまいました。
8代目坂東三津五郎(ばんどう・みつごろう)は東京出身。7代目三津五郎の養子。本名は守田俊郎。1913年(大正2年)3代目坂東八十助で初舞台、1928年(昭和3年)6代目坂東蓑助を襲名します。新劇場、東宝劇団などを結成し独自の活動を経て、関西歌舞伎で活躍。1961年に東京松竹に復帰。均整のとれたキメの細かな芸風で舞踊に優れていました。1962年に8代目三津五郎を襲名。歌舞伎界の故事、先達の芸風に詳しく、「歌舞伎の生字引」といわれ、1973年には人間国宝となりました。
なお、このフグ中毒事件で、フグを提供した調理師は業務上過失致死罪に問われ、一審で禁固八月、執行猶予二年。大阪高裁の控訴審では、一審判決は被害者の名声ゆえに厳しすぎ、被害者も好んで食べ、公演後の疲労もあったと、禁固四月、執行猶予二年の減刑判決を受けました。
長男が自殺し現場に駆けつけた際に、喉が渇いたのでそこにあった長男が自殺に使用した毒水を誤って口にしてしまい、その場で絶命してしまったのが、幕末・明治初期に裁判官として活躍していた平賀義質です。
平賀義質(ひらが・よしただ)は筑前福岡藩士の平賀源六の子で、通称名は磯三郎。藩命を受けて長崎で西洋学を研究し、1867年(慶応3年)藩命でアメリカに遊学し、国情に精通します。1870年(明治3年)官途に入り、司法省判事となり、岩倉使節団にも加わり再び欧米へ渡ります。帰国後は函館裁判所長や検事局判事を歴任しました。
1982年(明治15年)長男と父も失い、平賀家の家督者がいなくなり、石松决が親戚筋から推薦され、平賀義美と改名し家督を継ぎました。平賀義美は化学者・実業家として明治の商工業界に多大な貢献をなした人物です。
1939年(昭和14年)伯父の葬儀の帰宅中に、車を運転していた子爵で農園家の鳥居忠一と夫人の寛子、陸軍騎兵大佐で子爵の三宅忠強は、京王線の幡ヶ谷-笹塚間の踏切に差し掛かったところ、上り電車が突っ込み、車は30メートル引きづられ、下り電車にも突っ込まれ、三人とも即死する事故に見舞われました。
鳥居忠一は下野壬生3万石藩主の鳥居忠宝の孫で、父の忠文は貴族院議員を務めた華族です。1911年東京農業大学を卒業し、三井合名会社に入り戸越農園主任となります。大日本園芸組合顧問、高級園芸市場組合長を務めていました。同乗して亡くなった婦人の寛子は財閥の三井家出身で、三宅忠強は三河の田原藩主の系統。まだ貴族の乗り物であった車の列車事故は大ニュースとなりました。
ミラ・ベル・ムーンは英語教師・宣教師として、1911年(明治44年)に来日しました。アメリカンスクールや正則英語学校で英語を教え、協力宣教師として青山学院講堂にて日曜日に行われた英語バイブルクラスは毎週百名を超す出席者を集めました。1931年(昭和6年)より府立第八中学校に招かれ教師をします。
1935年2月11日午後0時半頃、東京青山にて市電停留所付近で通りすがりのタクシーにはねられ重傷を負い、敗血症を併発し亡くなりました。亡くなる直前まで、運転手の身の上を案じ続け、運転手が罪に問われないようにと遺言していました。後にこの遺言を知った運転手はキリスト教を信仰するようになり、地元の青果店主人は感激して、ここ多磨霊園にお墓を建之しました。
最後に『蒲団(ふとん)』など自然主義文学の先駆で、私小説のさきがけの作品を数多く発表した作家の田山花袋(たやま・かたい)の逸話を紹介します。
1930年(昭和5年)病床で憔悴した花袋の所に、島崎藤村が見舞いに訪れました。藤村が花袋に「この世を辞してゆくとなると、どんな気持ちがするものかね」とまじめに死ぬ気分を質問しました。花袋は「なにしろ、誰も知らない暗いところへ行くのだから、なかなか単純な気持ちではない」と返答。「苦しいかね」「苦しい」という会話がなされた二日後に花袋は亡くなりました。
8代目 坂東三津五郎 埋葬場所: 1区 1種 6側(守田家)
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/H/bandou_m.html
平賀義質 埋葬場所: 20区 1種 16側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/H/hiraga_yo.html
鳥居忠一 埋葬場所: 12区 1種 7側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/T/torii_t.html
ミラ・ベル・ムーン(Moon, Mira Belle) 埋葬場所: 11区 1種 9側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/M/moon.html
田山花袋 埋葬場所: 12区 2種 31側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/T/tayama_k.html
【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。