世界的著名なスパイとその活動を助けた日本人【「戦争の情報戦③」スパイ・ゾルゲ事件】ゾルゲ×尾崎秀実

ゾルゲさんのお墓

戦争は情報戦でした。最後は最も危険で最も的確に情報を得ることができる「スパイ」です。日本で諜報活動を行った世界的に著名なスパイはリヒアルト・ゾルゲです。

 ゾルゲの父はドイツ人、母はロシア人。ベルリンで育ち、共産主義に傾倒し、ドイツ共産党に入党します。モスクワに行き、コミンテルン情報書記局員となり、ソ連共産党にも入党。1929年(昭和4年)からドイツのジャーナリストとして、上海で諜報活動に従事。そこで、朝日新聞記者をしていた尾崎秀実と知り合います。

 1933年ドイツの有力日刊紙フランクフルター・ツァイトゥング紙の東京特派員として来日。ゾルゲの暗号名「ラムゼイ」を冠にした対日諜報機関を創立。再来日した1935年より本格的に諜報活動に入ります。ゾルゲの目的は、ソ連の最大の脅威国ドイツの動きを極東で観察し、できるだけソ連という的から外すことにありました。あわせて日本の動きをつぶさに調査することです。

 尾崎秀実さんのお墓

 尾崎秀実(おざき・ほつみ)は、1925年(大正14年)東京帝国大学を卒業し、朝日新聞に入社。特派員として上海に滞在。この時にゾルゲに出会います。1932年(昭和7年)帰国後は、東亜共同体論でアジア民族の解放を唱える文筆活動を行っていました。1938年に朝日新聞を退社し、第1次近衛内閣で満州鉄道調査部の嘱託となります。尾崎は近衛文麿のブレーンとなり内外の最高機密情報を聴ける立ち位置を確立しました。同時に、これらの情報はゾルゲに流れました。ゾルゲのスパイ活動を助けた尾崎の目的は、ソ連に続いて、中国、日本に革命が起きると予測して帝国主義戦争の停止と日中ソ提携の実現にあったといわれています。

ゾルゲさんとその同志たちのお墓

 ゾルゲは尾崎以外にも多くの仲間たちを集め、スパイ網を日本国内に構築、スパイ活動を行います。ソ連の情報は、無線や連絡員を通じて直接モスクワから送られてきました。英米仏の情報は、それぞれの国の大使館員と交友関係のあるフランス通信社に勤める人物から入ってきました。ドイツの情報は、ドイツ大使館に自由に出入りし、オットー大使の私設顧問のような立場にまでくいこんだゾルゲ自身が集めました。日本の国家機密は尾崎秀実を通じてゾルゲに流れます。ラムゼイ機関には、ほぼ全世界の最高で最新の情報が集まるようになりました。

 ゾルゲはライカの小型カメラを愛用しており、潜入した大使館から軍事資料や機密資料を一枚一枚撮影。伝書使に託されるフィルムは1回で30本、写真枚数にして1000枚に達し、それをソ連に送っていました。

 優秀な情報源に恵まれただけではなく、ゾルゲの情報分析は的確で、二・二六事件の社会的や政治的背景の分析、日独防共協定の秘密条項の入手、日独伊三国軍事同盟参加拒否の日本の態度、独ソ戦開始の的確な予測、日本の南進か北進かの態度決定予測など、緻密に把握しソ連に正確に打電していました。

 1941年10月15日警視庁特高一課と同外事課によって国際スパイの疑惑で尾崎が検挙され、18日にゾルゲも検挙されました。その他のグループ員たちも一斉に逮捕され、「ゾルゲ事件」が明るみになります。1942年国防保安法、治安維持法違反などにより起訴され、1943年9月29日に一審によってゾルゲと尾崎に死刑の判決が下りました。翌年に公判が一度のみ行われ、1944年11月7日ロシア革命記念日に巣鴨にてゾルゲと尾崎は処刑されました。

 逮捕後、ゾルゲは「もはや日本に盗む機密は何もない」と豪語し、自身がソ連のスパイであることを自供するも、ソ連政府は頑なに拒否。遺体の引き取りもしませんでした。ゾルゲがソ連に名誉回復されたのは、1964年になってからです。

 尾崎は逮捕後、妻子と獄中で取り交わした手記が、戦後『愛情はふる星のごとく』として刊行されベストセラーになりました。

ゾルゲ  埋葬場所: 17区 1種 21側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/S/zo_r.html

尾崎秀実  埋葬場所: 10区 1種 13側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/ozaki_h.html

※ゾルゲの墓がなぜ多磨霊園にあるのかは、石井花子を取り上げた以前のコラムをご参照ください。

【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。

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◆歴史が眠る多磨霊園 http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/
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