
戦争ではいかに敵側の情報をいち早く得て、戦いを優勢にするかが重要でした。太平洋戦争では相手側の無線などを傍受することが当たり前です。そこで、相手に聴かれても仲間が意思疎通できるように「暗号」を用いられるようになりました。しかし、太平洋戦争では戦争前から戦争の全期間を通じて、ほとんど米国に日本側の暗号が解読されていました。物量によるハード面だけでなく、情報戦のソフト面も日本はアメリカに負けていました。よって、日本軍による攻撃をアメリカは事前に察知し戦いを有利にしていました。有名なところでは、ミッドウェイ海戦や山本五十六連合艦隊司令長官の戦死など、日本側の動きが筒抜けであり、情報戦に敗北したといっても過言ではありません。
今回は日米開戦前にアメリカの情報収集を行い、戦争回避のための和平工作を行っていたニューヨーク領事の外交官の寺崎英成と、駐アメリカ公使の外交官の若杉要のエピソードを紹介します。二人とも駐アメリカ特命全権大使の野村吉三郎を補佐していました。また、寺崎英成の兄の寺崎太郎はアメリカ局長を務めていました。全員が戦争を食い止めるべき、ルーズベルト大統領やハル国務長官と会談を行ない、日米交渉の打開に努力していました。
寺崎英成(てらさき・ひでなり)は神奈川県出身。貿易商の寺崎三郎の二男として生まれます。1921年(大正10年)東京帝国大学を中退し、1927年(昭和2年)外務省に入省。1931年ワシントンの日本大使館在勤中に、日本大使館のパーティーで米国人グエンドレン・ハロルドと知り合い意気投合。外交官が外国人と結婚することがタブーであった時代に結婚しました。翌年、上海総領事館勤務となり、この年に長女のマリコ(寺崎マリ子:マリコ・テラサキ・ミラー)が誕生します。その後、ハバナ、北京など在外勤務を経て、1941年に再びワシントンに戻り、一等書記兼ニューヨーク領事となり、野村吉三郎大使を補佐して対米交渉に当たりました。
日米交渉には現地情報が必要であり、そのやり取りをしたいところでしたが、現地での日本人外交官の動きは全てFBIに監視され、電話も盗聴されるなどの諜報工作が行われていました。そのため、外交官同士のやり取りは暗号が使用されます。兄の寺崎太郎アメリカ局長と若杉要駐米公使との国際電話は、盗聴されるであろうと予測し、暗号を使用することにしました。それこそが「マリコ」でした。実際に諜報工作はFBIに筒抜けであり行動を分刻みで記録されている「寺崎ファイル」なるものが戦後発覚しています。
暗号名「マリコ」はこのように使われていました。1940年、英成と兄の太郎との間での会話です。
「マリコの具合はいかがですか?」(日米関係はどうですか?)、「マリコは大変悪いです。どんどん悪くなる一方です」(見込みが薄くなりました)、「それはいけない。荻窪のオヤジが生きているうちに、良い医者に診てもらわないと」(近衛首相が辞職させられそうです。首相であるうちに改善しないと危ない)。
若杉要「わかすぎ・かなめ)は、1937年(昭和12年)ニューヨーク総領事に就任し、1941年から駐アメリカ公使として、駐アメリカ特命全権大使の野村吉三郎を補佐しました。寺崎兄弟とも、主に「駐兵問題ニ関スル米側態度」を示す合言葉「マリコ」が用いられ、情報を共有します。
暗号はワシントンの在米大使館と東京の外務本省との間でも使用されており、例えば「伊藤君」(=「総理」)、「伊達君」(=「外務大臣」)、徳川君(=「陸軍」)、「縁談」(=「日米交渉」)、「君子サン」(=「大統領」)、「子供カ生レル」(=「形勢急転スル」)、「七福神ノ懸物」(=「四原則」)、「ソノ後ノ公使ノ健康」(=「交渉ノ一般的見透」)といった合言葉が使用されていました。
若杉は野村と共に、ハル国務長官と会談を行っており、日米交渉における3つの懸案である「日独伊三国同盟条約の解釈および履行問題」、「通商無差別問題」、「中国における日本軍の駐兵・撤兵問題」の打開の努力をしていました。アメリカに最大限の譲歩案を提示するなど交渉を行いますが進展しませんでした。
太平洋戦争に突入し、1942年8月に寺崎一家は日本に帰国し、英成は外務省の政務局第7課長に就任します。
妻グエン、娘マリ子は、反米感情の中、仕打ちに耐えます。戦後、日本政府とGHQの連絡官となり、宮内庁御用掛、天皇とマッカーサーの通訳担当官に任命されます。差別を恐れた英成はグエンとマリコをアメリカに帰らせています。1951年に脳梗塞で倒れ、50歳の若さで没しました。
妻のグエンは寺崎英成一家の外交官時代の体験談をもとに執筆した『太陽にかける橋』が日米でベストセラーとなりました。英成死後40年後、1990(平成2年)米国の自宅でマリコが遺品の中から「昭和天皇独白録」を発見し話題を呼びました。
寺崎英成 埋葬場所: 17区 1種 11側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/T/terasaki_h.html
若杉 要 埋葬場所: 6区 1種 16側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/W/wakasugi_ka.html
【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。