
1904年(明治37年)日露戦争が勃発。当時はテレビもネットもない時代。相手の情報をいかに先に入手し備えるかは戦略上、重要なポイントでした。昔の戦争の情報戦、「挺進部隊」「暗号」「スパイ」の3つのテーマを紹介していきたいと思います。まずは敵の裏をかく「挺進部隊」です。「挺進」とは「主力から飛び離れて進むこと(主力部隊より前方の敵地を進む)」ということです。
日露戦争で旅順攻略に成功した日本軍は、敵であるロシア軍が「奉天」に来ると予測し、次の戦いは「奉天」での決戦だと企図しました。しかし、敵から聞いたわけでもなく、あくまでも予測にすぎません。ひょっとしたら、「鉄嶺」という場まで退いて日本軍を迎え撃とうしているかもしれません。日本軍としてはこれからの動き、状況判断に迷っていました。そこで情報収集を行うために、将校斥候(偵察のための兵士)の派遣を命じました。抜擢されたのが山内保次と建川美次です。1905年1月4日に山内保次少尉以下4騎(山内挺進斥候 騎兵14連隊兵3人 満通訳1人)、1月9日に建川美次中尉以下6騎(建川挺進斥候 騎兵第9連隊)が鉄嶺へ向けて出発。
山内保次(やまうち・やすつぐ)は新潟県出身。1902年(明治35年)陸軍士官学校を卒業(14期)し、翌年陸軍少尉に任官します。軍人となってすぐ日露戦争が勃発。騎兵第1旅団長の秋山好古の下で騎兵戦術を駆使してロシア軍と戦います。そして、山内挺進斥候として敵中を進むことになりました。
山内隊は途中で馬賊を指揮する橋口少佐と会い、紹介された通訳を伴って鉄嶺を目指しました。その後はロシア兵を装って潜行を続け、食料の確保や極寒期の野営、さらに敵の追撃に苦しみながらも14日には鉄嶺近辺に達することができました。ここで山内は報告のために通訳を送り返すとともに、ちょうど発生した霧に紛れて鉄嶺市街に進入します。途中で何度か敵騎と出くわしますが、引き返すとかえって怪しまれると思ってそのまま横を通過し、さらに100騎ほどの敵縦隊の後に付いて行くなど大胆に行動して敵情を探り続けました。そして敵の追撃をかわしながら1月21日に帰還。山内斥候は18日間、総行程1,000キロでした。一方、建川隊はロシア軍勢力地の奥深くまで挺進し、後方攪乱と敵情を探りました。建川斥候の総行程1,200kmを走破。
山内、建川らは「鉄嶺の部隊は総予備軍ではなく、単なる後方守備隊である」「鉄嶺付近の工事は簡易なものである」「北方から列車で鉄嶺に来た兵士達は、そこで下車することなくそのまま南下していく。北上してくる列車はほとんど空席」など、ロシア軍が鉄嶺への撤退戦術をとるのではなく奉天での決戦に備えていることをうかがわせる重要な情報をもたらしました。
建川美次(たてかわ・よしつぐ)は1901年に陸軍士官学校を卒業(13期)。騎兵第9連隊付となり日露戦争に出征し、建川挺身隊を率いました。その後、陸軍大学校を卒業して、イギリス駐在やインド駐剳武官を経て、1931年(昭和6年)に起こった三月事件の計画には参謀本部第2部長として加担し、満州事変の挑発にも一役買い、ジュネーブ軍縮会議に派遣されるなど、陸軍の中枢として活動。最終階級は陸軍中将。退役後は駐ソ連大使などになっています。山内は日露戦争後、騎兵学校教育に携わり、最終階級は陸軍少将。
二人の活躍は児童文学作家の山中峯太郎により、冒険小説『敵中横断三百里』(1931刊行 建川挺進斥候がモデル)、次いで『敵中四騎挺進』(1941刊行 山内挺進斥候がモデル)により紹介され、大ベストセラーとなりました。後に黒澤明が映画化を計画し、『日露戦争勝利の秘史 敵中横断三百里』のタイトルで脚本を手掛けています。戦後、小国英雄と共に脚色したものを、大映で映画化(1957年公開)されました。
原作者の山中峯太郎(やまなか・みねたろう)は大阪出身。旧姓は馬淵。呉服商の馬淵浅太郎の次男として生まれますが、3歳のときに軍医の山中恒斎の養子となりました。1905年陸軍士官学校を卒業(18期)。軍人になるための勉強をしている時に、日露戦争の二人の活躍を知ります。
山中は陸軍大学校にも入学し軍人の道を歩んでいましたが、1912年に大学を退校し、朝日新聞社通信委員となり、中国革命軍に投じました。陸軍軍人や中国革命家の傍らで、文筆活動も行っており、1906年大阪毎日新聞に『真澄大尉』を吾妻隼人の名義にて連載を皮切りに、1910年以降は主に朝日新聞などで色々な名義で執筆。関東大震災を機会に少年冒険小説家として執筆活動に打ち込むようになり、1930年(昭和5年)「少年倶楽部」に『敵中横断三百里』の連載を開始しました。以降、『亜細亜の曙』『万国の王城』『大東の鉄人』などベストセラーを立て続けに刊行し、映画化にもなります。戦前は戦記ものの作品が多かったですが、戦後は、伝記小説、SF小説のほか、翻案『シャーロック・ホームズ全集』は日本中の子供たちを熱狂させました。
山内保次 埋葬場所: 12区 1種 31側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/Y/yamauchi_ya.html
建川美次 埋葬場所: 13区 1種 2側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/T/tatekawa_y.html
山中峯太郎 埋葬場所: 14区 1種 8側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/Y/yamanaka_m.html