
墓荒らしはエジプトのピラミッドや日本の古墳など昔からあり、墓地に共えられた貴金属などを盗難、または死体そのものを持ち去る犯罪で、墓泥棒のことです。
近代日本でも幾つか事例があり、陶芸家がつくった骨壺を盗み売り歩いていた男が逮捕や、1988年(昭和63年)に近藤真彦氏の母親の遺骨が持ち去られ、ジャニーズ事務所にレコード大賞を辞退させろという脅迫事件が起こったことがありました。他にも地上げの帝王と呼ばれた早坂太吉氏の妻の遺骨が盗まれ300万円を騙し取られた事件や、王貞治氏の妻の遺骨が盗難され新聞沙汰になったこともありました。
多磨霊園でも過去に二回、遺骨盗難事件がありました。以前にも取り上げた作家の三島由紀夫と漫画家の長谷川町子です。改めて紹介しつつ事件の真相をまとめます。
三島由紀夫(みしま・ゆきお)は東京四谷出身。祖父は樺太長官などを務めた平岡定太郎で、父は農林官僚の平岡梓です。本名は平岡公威。平岡家の墓に眠っています(墓誌に筆名・三島由紀夫の刻みがあります)。
幼少期は両親から引き離され、祖母の夏子に育てられました。学習院中等科在学中から詩歌や散文を書き、1938年(昭和13年)「輔仁会雑誌」に、最初の短篇小説『酸模〔すかんぽ〕-秋彦の幼き思ひ出』『座禅物語』が掲載されました。1941年から同雑誌の編集長に選ばれ、処女短篇集『花ざかりの森』を手がけ、この時より、筆名を三島由紀夫とします。戦後は川端康成の推薦で『煙草』『岬にての物語』などを発表し文壇の足がかりをつくり、1947年に東京大学を卒業して大蔵官僚となるも、並行して初の長編『盗賊』を発表するなど、二重生活を行っていましたが無理がたたり、駅のホームから転落して電車に轢かれそうになったのを機に、9ヵ月で役所を退職し、作家に専念することになります。1949年『仮面の告白』で作家の地位を確立し、『愛の渇き』『青の時代』『潮騒』『金閣寺』『鏡子の家』などのベストセラーを立て続けに発表。戯曲や評論も発表し、ノーベル文学賞候補として世界的にも名声をあげました。
1968年「盾の会」を結成。1970年同志を率いて東京市ヶ谷の自衛隊東部方面総監部に乗り込み、自衛隊の決起を促しましたが果たせず、割腹自殺をしました。享年45歳。
自殺をした翌年の1971年(昭和46年)9月に、三島由紀夫の遺骨が盗まれる事件が発生しました。当時、多磨霊園近辺では「3億円事件」が起きたばかりで、警察当局は遺骨盗難に対して力を注ぐことができていませんでしたが、同年の12月に非番の捜査官が三島由紀夫の墓所から約40メートル離れた盛土の中に骨壷が埋まっているのを発見しました。夫人同席の元、中を確認したところ、骨と一緒に入れた葉巻もそのままの状態で入っていたことから本人のものと確定し、遺族のもとへ二ヶ月ぶりに返ってきました。盗んだ犯人が自発的に返したものと思われましたが、その背後関係ははっきりせず事件は打ち切られています。
長谷川町子が没した翌年の1993年(平成5年)3月25日、町子の遺骨が墓所から盗まれ、数千万円を要求する脅迫状が遺族に届けられたことが、4月1日付の各紙報道で公となりました。これは、脅迫を受けていた町子の姉の毬子が警視庁玉川署に被害届を出されて発覚します。
記事によると、毬子宅には「町子の骨壷の写真の入った遺骨を返してほしければ金を出せ。要求に応じるなら新聞広告を出せ」という内容の脅迫状が郵送され、玉川署では墳墓発掘と脅迫などの疑いで、東京都内で警戒にあたっていましたが犯人は現れなかった。と報じています。4月5日、長谷川町子の遺骨は、東京都渋谷区のJR渋谷駅内のコインロッカーで発見され、11日ぶりに遺族の手に戻りました。犯人の行方などはわかっておらず、こちらも事件は打ち切られています。
昨今は身代金目的の遺骨盗難が目立ちました。生きている人間は誘拐となりますが、人間は骨になると「モノ」という解釈となり、窃盗・盗難となります。またお墓を荒らす行為は、刑法第24章「礼拝所及び墳墓に関する罪」となり、第189条(墳墓発掘)墳墓(ふんぼ)を発掘した者は、二年以下の懲役に処する。第190条 死体、遺骨、遺髪又は棺に納めてある物を損壊し、遺棄し、又は領得した者は三年以下の懲役に処する。第191条 墳墓発掘死体損壊等 墳墓発掘の罪を犯して、死体、遺骨、遺髪又は棺に納めてある物を損壊し、遺棄し、又は領得した者は、三月以上五年以下の懲役に処する。と法律で定められています。
三島由紀夫 埋葬場所: 10区 1種 13側(平岡家之墓)
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/M/mishima_y.html
長谷川町子 埋葬場所: 10区 1種 4側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/H/hasegawa_m.html
【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。