チャタレー事件で逆転有罪も【注目された判決・多磨霊園に眠る最高裁判事たち】奥野健一×下村三郎×栗本一夫

奥野健一さんのお墓

多磨霊園には戦前の大審院判事や戦後の最高裁判所判事が多数眠っています。今回は戦後、最高裁判所判事として後世に残る判決をくだした最高裁判事を紹介します。

 1959年(昭和34年)「日米安保条約には日本の司法審査権は及ばない」とする多数意見に対し「司法審査権は及ぶ」との判決をくだした砂川事件を裁いた最高裁判事は奥野健一です。

 奥野健一は和歌山県出身。1923年(大正12年)に東京帝国大学法学部を卒業し、仙台地裁所長、大審院判事、参議院法制局長などを歴任後、1956年から1968年まで最高裁判事を務めました。「ハト派」と呼ばれ、柔軟な法律論を展開した裁判官です。

 砂川事件とは正式事件名は「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基く行政協定に伴う刑事特別法違反被告事件」で、別名は「砂川闘争」と言います。1957年6月27日(昭和32年)に東京都立川市砂川町にあるアメリカ軍立川基地拡張問題で、砂川強制測量が行われたことが発端です。これに対して基地拡張を反対する地域住民らが、7月8日東京調査局が再測量を行った際に、反対派と警察隊が衝突。アメリカ軍基地の立ち入り禁止区域に立ち入ったとして、反対派の7名が刑事特別法違反で起訴されました。

 1959年3月30日の第一審判決は「日本政府がアメリカ軍の駐留を許容したのは、指揮権の有無、出動義務の有無に関わらず、日本国憲法第9条2項前段によって禁止される戦力の保持にあたり違憲である。 したがって、刑事特別法の罰則は日本国憲法第31条に違反する不合理なものである」と判定し、全員無罪の判決を下しました。検察側は直ちに上告。1959年12月16日の奥野による最高裁判所判決は、「憲法第9条は日本が主権国として持つ固有の自衛権を否定しておらず、同条が禁止する戦力とは日本国が指揮・管理できる戦力のことであるから、外国の軍隊は戦力にあたらない。したがって、アメリカ軍の駐留は憲法及び前文の趣旨に反しない。他方で、日米安全保障条約のように高度な政治性をもつ条約については、一見してきわめて明白に違憲無効と認められない限り、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」として原判決を破棄し原審に差し戻しました。結果、1963年12月7日被告人の有罪(罰金2,000円)が確定しました。

 この奥野の判決に対し強い批判が浴びせられ、安保体制と憲法体制との矛盾を端的に示す政治的に極めて重要な問題であると議論を呼びました。日本国憲法と条約との関係で、最高裁判所が違憲立法審査権の限界(統治行為論の採用)を示したものとして注目されています。なお、その後、米軍は立川基地から横田基地に移転し、1977年立川基地は日本に全面返還され、自衛隊の基地や国営昭和記念公園となり拡張されることなく現在に至ります。

 砂川闘争と同じ年の1957年、「芸術なのかエロなのか」が議論された裁判の判決も出ています。この「チャタレー事件」の裁判で一審無罪を有罪に逆転させた判決を言い渡した裁判官は下村三郎です。

下村三郎さんのお墓

 下村三郎は東京出身。東京帝国大学法学部を卒業し、裁判官生活と司法省への出向を繰り返した後、松江地方裁判所所長、東京高等裁判所判事、最高裁判所事務総長、仙台高等裁判所長官、東京高等裁判所長官を歴任し、1965年(昭和40)最高裁判所判事に就任。チャタレー事件は東京高裁判事時代に最高裁で争われた裁判です。

 英国作家ローレンスの『チャタレイ夫人の恋人』を日本語に訳した伊藤整と、版元の小山書店社長の小山久二郎に対して刑法第175条のわいせつ物頒布罪が問われた事件。わいせつ文書に対する規制(刑法175条)は、日本国憲法第21条で保障する表現の自由に反しないか。また表現の自由は、公共の福祉によって制限できるかが論点とされました。わいせつの判断は事実認定の問題ではなく法解釈の問題として、「著作が一般読者に与える興奮、刺戟や読者のいだく羞恥感情の程度といえども、裁判所が判断すべきものである」としました。すなわち、一般社会において行われている良識すなわち社会通念で決し、その社会通念の判断は公共の福祉の論を用いて、裁判官に委ねられるということ。下村三郎はそれに則り上告を棄却し、翻訳家と版元に罰金刑をくだしました。

 1972年(昭和47年)作家の野坂昭如が編集長をつとめる月刊誌「面白半分」に、性的描写のある永井荷風の戯作「四畳半襖の下張」を掲載したことが、刑法175条のわいせつ文書販売の罪が問われ、 野坂と同誌の佐藤嘉尚社長が起訴されました。

 1980年「四畳半襖の下張事件」と称されたこの事件を、チャタレー事件を踏襲する形で、わいせつ文書に当たるとして上告棄却の判決したのが、栗本一夫です。

栗本一夫さんのお墓

 栗本一夫は岐阜県出身。1935年(昭和10年)東京帝国大学法学部を卒業し、福島地裁所長、東京高裁判事、横浜地裁所長、名古屋高裁長官を歴任し、1976年から最高裁判事を務めました。経済人類学研究者、法社会学研究者、評論家の栗本慎一郎の父親です。

奥野健一 埋葬場所: 25区 1種 44側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/okuno_k.html

下村三郎 埋葬場所: 16区 1種 8側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/S/shimomura_ka.html

栗本一夫 埋葬場所: 4区 2種 新26側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/K/kurimoto_ka.html

【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。

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◆歴史が眠る多磨霊園 http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/
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