警察から逃亡し舞台出演の離れ業も【破門した人、された人 歌舞伎界】 5代目 中村歌右衛門×3代目 中村翫右衛門

5代目中村歌右衛門さんのお墓

「破門」とは、師弟の関係を断ち、門人の中から追放すること。おきてを犯した場合、組織から追放となる処分の一種のことです。多磨霊園には破門した人と破門された人が同じ霊園に眠っていたりします。歌舞伎界の名門の成駒屋。5代目中村歌右衛門(なかむら・うたえもん)の門弟であった、3代目中村翫右衛門(なかむら・かんえもん)が、1929年(昭和4年)師匠から破門されます。

5代目中村歌右衛門さんのお墓

 5代目中村歌右衛門の本名は中村榮太郎。江戸末期に幕府用達土方政五郎の妾腹の子として生まれ、1875年(明治8年)4代目中村芝翫(同墓)の養子となります。1877年初代中村児太郎として甲府三井座「伊勢音頭」の油屋息子で初舞台。1881年に4代目成駒屋中村福助を襲名。1884年「助六所縁江戸桜」で三浦屋揚巻に抜擢され、9代目市川團十郎の助六の相方をつとめ、以後、團十郎や5代目尾上菊五郎の相方をつとめます。美貌と品のある芸風で人気を集め、1901年に5代目中村芝翫を襲名し、1911年5代目中村歌右衛門を襲名しました。

 15代目市村羽左衛門、11代目片岡仁左衛門とともに「三衛門」と呼ばれ、明治の歌舞伎界を統率。歌舞伎座幹部技芸委員長に就任し、歌舞伎伝統芸能の発展と向上に尽力。また東京俳優組合の発足に寄与、後に大日本俳優協会に発展し初代会長を務めた大御所でした。

3代目中村翫右衛門さんのお墓

 一方弟子の3代目中村翫右衛門は、2代目中村翫右衛門の次男として生まれ、本名は三井金次郎。兄は3代目中村歌門。長男は4代目中村梅之助で初代遠山の金さんを務めました(同じ墓に眠ります)。

 1905年(明治38年)中村梅丸の名で下谷柳盛座の「山姥」の烏天狗で初舞台。1910年から5代目中村歌右衛門の門弟となり、同年、3代目中村梅之助と改名。1920年(大正9年)から歌舞伎座で名題になり3代目中村翫右衛門を襲名しました。名門の出でないための下積み中から役を内的に把握する理解力と表現の才能を認められ、着々と出世していました。しかし、1929年(昭和4年)雑誌『劇戦』を編集発行し、その中で、今まで積もり積もった鬱憤を暴露し、旧態依然とした歌舞伎界を批判したのです。これがきっかけで、歌舞伎界内部の反発を受けて、師の5代目中村歌右衛門から破門されました。

3代目中村翫右衛門さんのお墓

 破門された翫右衛門は、仲間と大衆座を結成し活動を継続します。1931年2代目河原崎長十郎、5代目河原崎国太郎らと前進座を創立。歌舞伎の革新に力を入れ、大衆演劇の創造を目指します。新歌舞伎、新作歌舞伎、現代劇、翻訳劇、歴史物、映画などにも精力的に取り組みました。

 1949年(昭和24年)座員69名と日本共産党に入党。当時は連合国占領下であり、マッカーサー指令によるレッド・パージが広がり、興行弾圧がされていました。1952年北海道赤平町で、劇団前進座の「俊寛」巡演が警察ぐるみの組織で妨害され、巡演当日で観客も会場に集まっているにも関わらず上演の約束をキャンセルされました。やむを得ず、翫右衛門が会場で上演中止の挨拶を行ったところ、これを住居侵入罪として一行の一部が逮捕され、翫右衛門にも逮捕状が出たのです(赤平事件)。警察から逃亡の身となるも自身が出演する舞台には出演するなど離れ業を演じ、中国・北京へ潜行。連合軍撤退後、1955年に堂々と帰国。その際、メディアからは「凱旋帰国」と報じられました。

 その後は前進座の代表として八面六腑の活躍し、次代の育成、演劇の大衆化につとめ、またテレビなどにも積極的に出演しました。

5代目 中村歌右衛門 埋葬場所: 2区 1種 13側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/N/nakamura_uta5.html

3代目 中村翫右衛門 埋葬場所: 25区 1種 49側(三井家)
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/N/nakamura_kan.html

【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。

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◆歴史が眠る多磨霊園 http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/
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