
ボールパーク構想と地域密着で人気を博しチケット購入も難しくなってきた昨今のプロ野球。実は昭和初期にもスタジアム建設に力を入れていた人たちがいます。
1932年(昭和7年)アメリカの職業野球を模して本格的な、12万人が収容できる職業野球専門野球場をつくろうと計画し、株式曾赴東京臨海野球場の設立趣意書を発表。創立委員長に就任したのが星野錫です。
星野錫(ほしの・しゃく)は、播磨(兵庫県)姫路藩士の星野乾八の長男。幼名は錫一郎。成人後の通称名を錫としました。1873年(明治6年)景締社で印刷工となり、1887年アメリカに留学。アートタイプ(コロタイプ)という、感光液を版材に塗布する写真版印刷を日本人で初めて修得して帰国し、王子製紙に入ります。1890年第三回内国勧業博覧会にアートタイプ印刷の絵画を出品し入賞。画報社を設立し『美術画報』『美術新報』の雑誌を発行。また写真入り新聞の創刊に協力し、印刷の新分野を開拓しました。
1896年王子製紙から独立し、東京印刷株式会社を設立し専務、後に社長に就任。海外の実業界を視察して、週休制の導入や女性事務員の採用など実業界全体にも多大な影響を与えました。1912年衆議院議員に当選。東京商業会議所副会頭・東京事業組合連合会長をはじめ、多くの取締役を務めました。そんな晩年、東京市芝区芝浦埋立地、芝浦海岸と品川駅寄り貨物積込所の中間に位置したところに球場をと、壮大な計画がもたらされます。
当時の野球は「する」が主流で、高校野球、大学野球が大人気でした。しかし、選手たちのその先がありません。六大学野球の神宮球場、高校野球の甲子園球場がありましたが、それ以上を誇る野球場もありません。また野球は一般大衆がお金を出してまで観に行く習慣もありませんでした。アメリカのように、日本にも職業野球を根付かせる。野球に可能性を見出した人物たちが動き出します。
「東京臨海野球場」の構想は野球の一般化と野球を法人という自由な立場の下に普及させ、野球を通して国民思想養成と体育奨励に貢献することを目的としました。また市井のファンを獲得することで、ラジオ放送を通して広く宣伝をして商業化していく。そんな設立趣意書を作成し株式の募集を行い、投資家を募りました。
当社専属の職業野球チームをつくることで、グランド貸による試合を270試合と想定しその収入及び、ホテル経営収入などは相当の見込み有りで、チケット収入など莫大とうたっています。しかし、まだ職業野球がなかった時代、ピンとくる投資家もいないと踏んで、他の営利面では、野球場のスタンド下を貸倉庫として海陸両方面の貨物を収容でき6千坪分収入があること、スタンド下2、3階の2004坪分を貸アパートに利用する設計にし、二重の利益を得ることなども書かれています。しかし、残念なことに壮大過ぎた計画はとん挫してしまいます。
この計画がとん挫してから2年後、1934年(昭和9年)ベーブ・ルース率いるアメリカ大リーグ選抜野球チームが来日し、日本縦断で試合を行い大盛況。職業野球の機運が高まり、1936年(昭和11年)日本のプロ野球(職業野球)が本格的に始まりました。
ところが、六大学野球リーグの反発で神宮球場が使用できなくなり、東京都内にプロ野球公式戦が行える場所がありません。同年7月1日の東京におけるプロチーム同士の初試合である東京巨人軍対名古屋軍の試合は、早稲田大学の戸塚球場を借りて挙行。急きょ、杉並区に上井草球場、深川区(江東区)に洲崎球場が造られましたが、上井草は3万人という収容人員に比して交通の便が悪く、洲崎は東京湾の埋立地に造られた海抜が僅か40~60センチのため、満潮時にたびたび球場が浸水し試合中止になる問題を抱えていました。そこで、東京の都心に職業野球専用の新球場を建設しようと立ち上げたのが、押川清です。
押川清(おしかわ・きよし)は宮城県出身。キリスト教牧師の押川方義の次男で、兄は冒険作家の押川春浪です。東京専門学校(早稲田大学)に進学し、野球部主将。強打の二塁手、左翼手で、初の渡米遠征にも参加。
1920年(大正9年)日本初のプロ野球チームといってよい「日本運動協会(通称・芝浦協会)」の創設メンバーに加わり、東京・芝浦に独自の球場を作って球場経営も行いましたが、関東大震災で芝浦球場が「震災復興基地」として差し押さえられたため、やむを得ず解散した経緯がありました。
職業野球に対する思いは強く、かねてからフランチャイズ制を提唱していた押川や河野安通志は、東京の都心に職業野球専用の新球場を建設しようと計画します。読売新聞社の正力松太郎や阪急電鉄の小林一三らの出資を仰いで、株式会社後楽園スタヂアムを設立。小石川・後楽園の東京砲兵工廠の工場跡地で空き地になっていた国有地を払い下げで取得し、内野2階建てスタンドを持つ野球場を建設。1937年(昭和12年)9月に後楽園球場が誕生しました。同じ年に「後楽園野球倶楽部・イーグルス」を創設、その球団社長に就任しました。
押川は、1959年(昭和34年)「野球殿堂」が設けられた第1回目の表彰の際に、正力松太郎や沢村栄治らと共に野球殿堂入りしています。
星野 錫 埋葬場所: 6区 1種 9側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/H/hoshino_s.html
押川 清 埋葬場所: 17区 1種 45側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/oshikawa_k.html
【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。
『 日本にも職業野球を【幻の野球場「東京臨海野球場」と日本初プロ専門野球場「後楽園球場」】 星野錫×押川清 へのコメント 8件 』
洲崎大東京球場(1936-39) 36年10月完成 43年頃に解体
後楽園スタヂアム(1937-87) 37年9月完成 88年迄に解体
当時プロ野球は神宮球場は畏れと使わせて貰えなかったので、東京区内での球場建設・解体が繰り返されていた。
芝浦、上井草、駒場… 今は昔。
この記事って本が出てるの?
川崎球場は知っている
今でも10.19は語り草
今の30代以下は後楽園球場は知らんやろな
今でいうボールパーク構想とは、営利面で違うよな。
後楽園球場が持つ球団、イーグルス。
後楽園球場も最初は巨人と別々だったのか。
黎明期の球場と云えば洲崎大東京球場、1936年の巨人ータイガースの優勝決定戦の球場。
満潮時にグラウンドが海水に浸かるというエピソードも。まさに昭和初期の臨海って感じ。
プロ野球黎明期の野球人。その生き様に時代の躍動を感じる。