【『11ぴきのねこ』と『フランダースの犬』の秘話】馬場のぼる×土倉冨士雄

 人気作品や感動作品の裏側には、創作者たちの深い思いや予想外の展開などが隠れていたりします。今回は発表されて50年以上経った今でも人気の絵本『11ぴきのねこ』の作者の馬場のぼると、『フランダースの犬』の提供スポンサーを務めたカルピス社長の土倉冨士雄を紹介し、二作品の秘話に迫ります。

 馬場のぼる(ばば・のぼる)は青森県出身。本名は馬場登。海軍予科練14期生として海軍航空隊に入隊し、特攻隊員として出撃を待つ間に終戦を迎えました。戦後は実家に戻り、職を転々としながら絵の勉強を始め、映画館などのポスターや看板を描くようになります。そして漫画家を目指すようになり、知人の児童文学者の白木茂に大阪の出版社を紹介され、1948年(昭和23年)赤本漫画『怪盗カッポレ団』を出版。上京して、1950年から集英社の「おもしろブック」で野球漫画『ポストくん』を連載。1954年からの連載『ブウタン』で第1回小学館漫画賞を受賞。児童漫画家として人気を得ましたが絵本にシフトし、1964年に『きつね森の山男』で産経児童出版文化賞を受賞して、絵本作家として活路を見出します。

1967年(昭和42年)代表作となる、とらねこ大将と10ぴきの仲間の愉快な冒険物語『11ぴきのねこ』を刊行し、手塚治虫、福井英一とともに「児童漫画界の三羽ガラス」と称される人気作家となりました。他に日本経済新聞の連載4コマ漫画『バクさん』や、群馬県のキャラクター『ぐんまちゃん』(初代)などがあります。

 『11ぴきのねこ』はこぐま社の社長の佐藤英和と二人三脚でつくられました。馬場は「お腹を空かせた猫が魚を食べるために頑張る話を描きたい」という想いを佐藤に伝え創作をはじめます。「魚は大きい方がいい!」「ネコは1匹よりも、何匹かいたほうがいい。でも何匹にするか?」二人の話しは膨らみます。「1匹は大将、あとの10匹が兵隊だ」「なぜ11ぴき?」「『じゅう・いっ・ぴき!』という発音が元気で気に入った」。このような感じで決まっていったそうです。

馬場のぼるさんのお墓

 ところが、ストーリー内容に懸念もありました。まず、主人公が名前のない野良猫であること。そして、普通であれば、退治される魚はなにか悪さをして人々を困らせているという理由があるものですが、野良猫が狙っている大きな魚は、何も悪さをしているわけではないこと。残酷ではないかと思われる可能性があるのではないかとの懸念でした。しかし、馬場は自身の戦争経験や終戦直後を経験してきている身。「子どもたちはお腹を空かしているし、お腹いっぱいになりたいと願っている。世の中に残酷と言われても、子どもたちが喜んでくれれば良い」と思い出版を強行しました。結果は予想に反して大人気となり、2回目の産経児童出版文化賞を受賞します。もちろん、作品には集団心理や団結効果、とらねこ大将のリーダーシップ等の描写と意外なストーリー展開が特徴で、かわいいキャラクターが人気を博した背景もあります。『11ぴきのねこ(と)~』の題名で以降6作にわたって出版され、数々の賞を得ました。

 『フランダースの犬』最終場面を知っている人は多いと思います。実は原作では主人公のネロ少年が聖堂に向かったのは自殺のためで死因は餓死でした。しかし、教会でネロとパトラッシュのもとに天使が舞い降りて天へ召される有名な場面へと切り替えさせた人物がいます。番組のスポンサーのカルピス社長の土倉冨士雄です。

カルピス社長の土倉冨士雄

 土倉冨士雄(どくら・ふじお)は奈良県出身。祖父は日本の造林王の土倉庄三郎。父は台湾での実業家・カーネーションの父と称された土倉龍治郎です。1932年(昭和7年)京都帝国大学を卒業し、父とカルピス創業者の三島海雲の縁でカルピス株式会社に入社します。1970年に社長に就任。カルピスの単品経営の脱却、企業体質の改善、生産体制の合理化、本格的研究施設の建設など、新しい導入に着手しました。また、ジャネット・リンなど外国人タレントを宣伝広告に起用するなど企業イメージ構築に大きく貢献します。

1969年からカルピス社は1社提供の単独スポンサーとしてアニメーション制作に携わっています。当時流行のアクションものではなく、世界の名作にこだわり放映させたのが土倉です。カルピス劇場は、「どろろと百鬼丸」(1969)、「ムーミン」(1969-70)、「アンデルセン物語」(1971)、「ムーミン(新)」(1972)、「山ねずみロッキーチャック」(1973)、「アルプスの少女ハイジ」(1974)、「フランダースの犬」(1975)、「母をたずねて三千里」(1976)、「あらいぐまラスカル」(1977)、「ペリーヌ物語」(1978)を放映しました。
1975年に放映された『フランダースの犬』最終場面、土倉は敬虔なクリスチャンからの博愛精神から「死は終わりではなく、天国への凱旋である」と考え、あの有名な場面となったのです。

馬場のぼる 埋葬場所: 20区 1種 22側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/H/baba_n.html

土倉冨士雄 埋葬場所: 16区 1種 20側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/T/dokura_hu.html

【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。


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◆歴史が眠る多磨霊園 http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/
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