イデオロギー対立は戦前もあった!?【大正時代②:天皇機関説VS天皇主権説】 美濃部達吉×上杉慎吉×高畠素之

前回、民本主義による政治を提唱した吉野作造を紹介しました。同じ時期に、美濃部達吉の「天皇機関説」が注目され、普選運動が活発になっていきます。天皇機関説は「君主は国家におけるひとつの、かつ最高の、機関である」としたドイツのイェリネックが主唱した国家法人説に基づくものです。

美濃部が提唱した「天皇機関説」では統治権を法人である国家が所有するということを前提とし、よって天皇は統治権を行使する国家の最高機関であるとします。同時に、内閣や議会、総体としての国民も国家機関であるので、これらの諸機関の間には、「国民→議会→内閣→天皇」という拘束機関が存在します。天皇は最高機関であるけど、社会情勢上、内閣の意思を無視できない。内閣は議会に対して責任を負う立場であるため、議会の意向を無視できない。そして議会は国民の意思を代表するものである。この拘束関係をより有効的に機能させるためには、内閣は政党内閣となって議会に連帯して責任を負うことが求められるという考えです。だから、普通選挙を通じて、国民全体から選ばれた議員によって議会は構成されるべきとした説です。

 前回の吉野作造の民本主義も、美濃部の天皇機関説も、現在の日本では当たり前となっている民主主義的な考えを訴えているのです。
 美濃部達吉は兵庫県出身。漢方医の美濃部秀芳の次男として生まれます。1897年(明治30年)東京帝国大学卒業。在学中に天皇機関説を主唱した一木喜徳郎を師事し、早くから民主主義の考えを持ちます。卒業後は、内務省に入りますが、憲法の研究のためヨーロッパに留学。帰国後は母校の教授になります。他国の憲法を学び、天皇制と大日本帝国憲法の基、美濃部は社会の民主化への要請に対応した憲法解釈を行えば、明治憲法下においても、立憲民主制、議会主義制を実現できると説きました。これを1912年『憲法講話』を著し、「天皇機関説」を公に発表するのです。

 ところが、これに真っ向から異を唱える人物が現れます。「天皇主権説」を唱えた憲法学者の上杉慎吉です。
 上杉慎吉は福井県出身。大聖寺藩医・適塾門下の医学者である上杉寛二の長男として生まれます。1903年(明治36年)東京帝国大学法学部政治学科を首席で卒業します。同大の助教授となり、1906年から3年間ドイツに留学します。その時、ドイツの公法学者で、後に対立する美濃部が天皇機関説の基となる国家法人説を主唱したイェリネック本人の家に下宿して指導を受けました。帰国し、1912年母校の教授となります。この年に同じ大学の教授であった美濃部が発表した「天皇機関説」に対して、上杉は『国体に関する異説』を発表し、「天皇すなわち国家である」という天皇主権説を主張しました。両者の論争は他にも参加者を得、天皇制絶対主義勢力とデモクラシー勢力のイデオロギー闘争となっていきました。

高畠素之
   
 上杉は吉野作造の民本主義も批判し、高畠素之と経綸学盟を設立して、国家社会主義運動を進めます。
 高畠素之は群馬出身。旧前橋藩士の子。クリスチャンとなり同志社に入るもキリスト教と決別し中退。高崎市で社会主義雑誌『東北評論』を発刊しましたが、1908年(明治41年)新聞条例により禁固二か月の刑を受けて入獄。獄中で英訳の「資本論」に出合います。1911年に堺利彦の「売文社」に入り社会主義活動に身を挺し、堺と山川均らと『新社会』を発行し、カウツキーの「資本論開設」を連載するなどマルクス主義を紹介します。

その後、自ら大衆社を創立し国家社会主義を唱え、1922年(大正11年)上杉と急進国家主義経論学盟を結成するのです。この考えは軍人含め多くの人に影響を与え軍国主義へと傾倒していくことになります。なお高畠はマルクスの「資本論」を日本で初めて全訳に成功し発表するなど社会思想家として活躍した人物です。

 大正時代に起こった民本主義・普選運動でしたが、昭和へと時代が代わり軍部が力を増す中、天皇機関説は国体に反する学説として排撃を受け(国体明徴運動)、1935年(昭和10年)天皇に対して不敬であるという理由(不敬罪)で美濃部は告発されるのです。

美濃部達吉 埋葬場所: 25区 1種 24側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/M/minobe_t.html

※美濃部達吉の長男は東京都知事になる美濃部亮吉で同じ墓に眠ります。

上杉慎吉 埋葬場所: 3区 1種 3側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/uesugi_s.html

※「上杉慎吉之墓」の道を挟んだ向かいに「上杉家之墓」の本墓が建ちます。上杉慎吉本人の刻みもあり、藩医であった父の上杉寛二、長男で東京経済大学名誉教授の統計学者である上杉正一郎も眠ります。

高畠素之 埋葬場所: 4区 1種 31側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/T/takabatake_m.html

【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。

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◆歴史が眠る多磨霊園 http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/
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