世界的な名著『武士道』を執筆【多磨霊園に眠るお札になった人物】 新渡戸稲造×新渡戸萬里子

 新紙幣が2024年度上期に誕生するということが発表され、新1万円札は渋沢栄一、新5千円札は津田梅子、新千円札は北里柴三郎になります。最も多くお札の肖像に登場したのは聖徳太子。今までの紙幣で数多くの歴史上人物がお札の肖像となっていますが、多磨霊園に眠る人物でお札の肖像となったのは二人います。1951年(昭和26年)から発行された50円札の肖像として高橋是清。そして、1984年(昭和59年)から発行された5千円札の肖像として新渡戸稲造です。高橋是清は以前、取りあげましたので、今回は5千円札の肖像となった新渡戸稲造と、その奥様の新渡戸萬里子を紹介します。

 新渡戸稲造は盛岡藩士で勘定奉行を務めた新渡戸常訓(十次郎)の三男として生まれます。1877年(明治10年)に「青年よ大志を抱け」で有名なクラーク博士が開校した札幌農学校の2期生として入学します。同期にキリスト教の代表的指導者として著名な内村鑑三(多磨霊園にお墓があります)がいました。

 稲造は札幌農学校卒業後、東京帝国大学に進学するも研究レベルの低さに失望し退学して、「太平洋の架け橋になりたいと」米国に私費留学しジョンズ-ホプキンズ大学に入りました。伝統的なキリスト教信仰に懐疑的であった稲造は、キリスト教プロテスタントの一派であるキリスト友会のクエーカー派に興味を持ち、その集会に通い始め、そこで、後に妻となるマリー・エルキントン(新渡戸萬里子)と出会いました。

 その後、札幌農学校助教授に任命され、ジョンズ-ホプキンズ大学を中退し、官費でドイツへ留学。ハレ大学で農業経済学の博士号を取得します。帰途、アメリカでマリーと結婚。1891年(明治24年)帰国し、札幌農学校教授となりました。この時、長男が誕生し、親交があった発明家のトーマス・エジソンから名前を取り、遠益と名付けます。しかし、一週間で早死してしまい、夫婦とも体調を崩し、農学校を休職して米国カリフォルニアで療養することにしました。1900年(明治33年)この地で執筆したのが世界的な名著『武士道』です。英文で刊行しベストセラーとなりました。

 翌年、農学校を辞して、後藤新平から招聘を受けていた台湾総督府の技師に任命され、台湾における糖業発展の基礎を築くことに貢献します。1903年より京都帝国大学教授を兼ね、1906年より東京帝国大学教授兼任で第一高等学校校長に就任。東洋的文化が強かった学風に西洋色を取り入れ学生たちに影響を与えました。その後、東京植民貿易語学校校長、拓殖大学学監、東京女子大学学長、津田塾顧問などを歴任し女子教育に力を入れます。

 1920年(大正9年)国際連盟設立に際して、教育者で『武士道』の著者として世界的に著名であり、国際人であった稲造が、事務次長に抜擢されます。人種的差別撤廃を提案し過半数の支持を集めるも、議長を務めたアメリカのウィルソン大統領に否決され実現しませんでしたが、7年間務めた事務次長の功績は高く評価されます。

 晩年は東京女子経済専門学校(後の新渡戸文化短期大学)の初代校長に就任。軍国主義に傾く中の日本に対して、国際平和を主張し続け戦争に反対するも軍部やメディアから非難を買い孤立し、また反日感情を緩和するためにアメリカに渡り、日本の立場を訴えるも、満州国建国と時期が重なったこともあり、アメリカの友人たちからも反発を受け失意の日々を送ることになりました。そして、1933年日本が国際連盟脱退を表明。その年の秋、太平洋問題調査会会議に日本代表団団長として出席するためにカナダに赴き、最後まで平和を訴えるも、会議終了後帰途中、西岸ビクトリアで倒れ、帰らぬ人となりました。

 生涯を国際平和のために献げた稲造の妻のマリー・パターソン・エルキントン(新渡戸萬里子)は、アメリカのフィラデルフィア州のフレンド派の家に生まれます。結婚後、稲造が札幌農学校教授となり初来日し札幌で暮らしますが、長男早死で体調を壊し一時帰国するも、再び来日。萬里子は私財を投じて貧しい少年たちのために遠友夜学校を設立します。稲造が亡くなった後も日本に留まり、2代目校長に就任し、学校運営に尽力しました。

また、1915年に発足した日本人道会の理事長を務め、動物愛護運動の先駆的な役割を果たすなど活躍。稲造没5年後に、心臓病のため軽井沢にて生涯を閉じました。

新渡戸稲造像
*新渡戸家の墓所添いの角地に「新渡戸稲造像」が建っています

新渡戸稲造 埋葬場所: 7区 1種 5側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/N/nitobe_i.html

新渡戸萬里子 埋葬場所: 7区 1種 5側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/N/nitobe_m.html

【参考】5000円札
5000円札
1984年(昭和59年)~2007年(平成19年)

【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。

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◆歴史が眠る多磨霊園 http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/
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