【多磨霊園に眠る勲章を辞退した人たち】 熊谷守一×徳富蘇峰×賀屋興宣

プロ野球選手のイチローが3度目の国民栄誉賞を「人生の幕を下ろした時に頂けるよう励みます」と返答し辞退されました。1995年に女優の杉村春子が「芝居の仕事を続けている最中であり、大きすぎる勲章を頂くと、いつも首にかかっているようで、この先、芝居を続けていくことができなくなるかもしれない」という理由で文化勲章を辞退しています。ノーベル文学賞を受賞した大江健三郎は「民主主義に勝る権威と価値観を認めない」と文化勲章そのものを否定して受章を拒否しました。色々な理由にて国からの勲章を固辞する人たちがいます。多磨霊園に眠る人の中にも辞退した人がいるので紹介したいと思います。

洋画家の熊谷守一

 「これ以上、人が来るようになっては困る」という理由で文化勲章を辞退したのは、洋画家の熊谷守一です。
 熊谷守一(くまがい・もりかず)は岐阜県出身。東京美術学校を卒業し、第3回文展に出品した「ローソク」で注目を浴び、後に二科展にも出品、二紀会創立会員など活動した洋画家です。単純化・象徴化した画風を深め‟画壇の仙人”と称される程の孤高の画家でした。
1967年(昭和42年)に文化勲章を先の理由で辞退し、1972年には勲三等の叙勲も辞退しています。1977年に肺炎のため97歳で亡くなりましたが、前年まで油絵の作品を描くなど生涯画家を貫いた人物でした。

言論界の重鎮であった徳富蘇峰
 1943年(昭和18年)に言論界の重鎮であった徳富蘇峰は文化勲章を受章しました。しかし、敗戦後の1946年にA級戦犯に指名され自宅拘禁となると、文化勲章を自ら返上しました。その際、同時に、貴族院議員、帝国学士院会員、帝国芸術会員の辞表、勲二等の叙勲も返上し、一切の公職を辞退しました。
言論界の重鎮であった徳富蘇峰
 徳富蘇峰(とくとみ・そほう)は肥後国(熊本県出身)。本名は徳富猪一郎。英学・歴史・経済・政治学に優れ、熊本で大江義塾を開き教師をしていました。1885年(明治18年)『第十九世紀日本ノ青年及其教育』を私刊し文壇の注目を集め、翌年、『将来之日本』を経済雑誌社より刊行し好評を得たため、塾を閉鎖し上京します。

 1887年に民友社を設立し、雑誌『国民之友』を創刊。当時の総合雑誌として政治・経済・外交その他の時事問題を論じる一方、文学作品の掲載にも力を入れ、明治期の文学者たちの発表の場ともなりました。更に、1890年『国民新聞』を発刊し、社長兼主筆として、平民主義を掲げ藩閥政治を批判し、明治中期のオピニオンリーダーとして活躍しました。以降も多くの雑誌を発刊し、歴史評論家として活躍。言論界の重鎮として政治にも力を有する存在となりました。1952年公職追放解除後は、『近世日本国民史』を着稿し、100巻を完成させました。享年94歳。

 もう一人、タカ派ながら敗戦責任を痛感して勲章を辞退した人物がいます。賀屋興宣です。
賀屋興宣(かや・おきのり)は、広島県出身。国学者である藤井稜威の次男として生まれ、母方の賀屋家の養子となります。東京帝国大学を卒業し、大蔵省に入り、主計畑を務め主計局長、理財局長を歴任し、1937年(昭和12年)林銑十郎内閣の大蔵次官に就任し、次の第一次近衛文麿内閣で大蔵大臣に抜擢されました。「賀屋財政経済三原則」を主張し日中戦争戦時予算の途を開きます。東条英機内閣でも大蔵大臣を務め、日米開戦における戦時予算編成に取り組み、戦時公債を乱発し、増税による軍事費中心の予算を組み、戦時体制を支えました。敗戦後、A級戦犯に指名され終身禁錮刑を宣告され服役します。

賀屋興宣

 1955年戦犯解除となり、1958年自民党公認として東京都第3区から衆議院議員総選挙に立候補し初当選。以後5回連続当選するなど政界に復帰しました。1961年は自民党の政調会長、1963年池田隼人内閣の法務大臣を務めます。1972年の政界引退まで自民党右派の長老、戦前戦後の政治家として活動しましたが、敗戦責任を痛感し勲章は辞退しています。享年88歳。

熊谷守一 埋葬場所: 26区 1種 2側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/K/kumagai_m.html

徳富蘇峰 埋葬場所: 6区 1種 8側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/T/tokutomi_so.html

賀屋興宣 埋葬場所: 9区 1種 1側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/K/kaya_o.html

【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。

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◆歴史が眠る多磨霊園 http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/
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