
林八郎は二・二六事件の際に首相官邸襲撃の指揮を執った青年将校です。決起将校の中で21歳の最年少として連座しました。林八郎の本籍は山形県鶴岡市。東京で生まれます。父は上海事変で戦死し軍神と称された陸軍少将の林大八。
祖父も軍人で、年少の頃から忠君愛国の精神をたたき込まれ育ちます。しかし、兄が左翼運動に走ったこともあり、国家改造の影響を受けた急進派でもあり影響を受けます。
東京府立第四中学、仙台陸軍幼年学校を経て、1935年(昭和10年)陸軍士官学校卒業(47期)。歩兵第一連隊第一中隊付歩兵少尉に任官。ここで栗原安秀中尉の直接行動への眼を開かれ、武力による決起を本格的に志向しだします。任官して一年も経たずして二・二六事件を迎えました。
二・二六事件では林八郎は第一隊に属しました。第一隊の指揮を執る栗原中尉の第3小隊を率いることになります。なお、第1小隊は栗原自身、第2小隊は池田俊彦少尉、機関銃小隊を尾島健次曹長が率いました。
午前五時頃、襲撃部隊は岡田啓介内閣総理大臣がいる首相官邸に侵入。林八郎率いる兵は裏門から侵入しました。官邸の玄関で襲撃隊を阻止しようとした小館喜代松巡査をその場で殺害。官邸内の非常ベルが鳴り響く中、岡田啓介の義弟の松尾伝蔵が官邸内の電灯を消してまわります。松尾と警備の警官の土井清松巡査は首相の寝室に飛び込んで岡田首相を連れ出します。
この時、庭の非常口近くでは清水与四郎巡査が守っていましたが機銃弾に倒れました。岡田首相の外への脱出を諦め、駆けつけた村上加茂衛門巡査部長と三人で岡田首相を浴場に隠します。その後三人は廊下で応戦。村上巡査部長は椅子を盾に拳銃で応戦していましたが、射殺されてしまいます。土井巡査は林八郎に組み付きましたが、他の兵隊に後ろから切り伏せられました。松尾は中庭で射殺された後に寝室に運ばれ、そこに在った岡田首相の写真と比べられ、その写真の上にはめ込まれていたガラスに眉間の辺りからひびが入っていたこともあり、そのまま岡田首相だと断定されました。
決起が達成され安堵している反乱軍。迫水久常首相秘書官と福田首相秘書官が遺骸確認に来ます。林は立ち合いを担当しました。翌日の岡田首相救出においても、若干21歳の若者には救出者の演技を見破ることはできず、岡田首相の脱出を許すことになりました。
襲撃後、昭和天皇が重臣を殺害しこれを正当化する反乱将校に激怒し、灰色決着を許さず、武力鎮圧を強固に命じ、天皇自ら近衛部隊を率いて反乱軍と戦うという発言をされました。29日に討伐命令が発せられ、攻撃開始命令が下されます。反乱部隊は帰順し、あえなく失敗に終わり、反乱部隊将校は投降しました。林ら襲撃部隊を率いた将校たちは叛乱罪で死刑判決を受け、7月12日渋谷区宇田川町の陸軍衛戍刑務所の隣にある代々木練兵場にて処刑されました。享年21歳。
処刑22名の中の首謀者の北一輝を除いて全員は「天皇陛下万歳」と叫び、日本国の発展を願って断頭台に立ちました。林八郎の死刑執行を撃ったのは同期の真藤少尉でした。処刑後、東京都渋谷区神南に「二・二六事件慰霊塔」、麻布賢崇寺に「二十二士の墓」が建立され、毎年2月26日と7月12日の2回、麻布賢崇寺で「二・二六事件の法要」が行われています。その法要では真藤少尉が尺八献奏を行なっていました。
林 八郎 埋葬場所: 7区1種13側23番
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/H/hayashi_ha.html
林家の墓所には「林家累代之墓」、「陸軍少将 林大八墓」と石柱の墓の三基が建ちます。林大八墓の建之者として林八郎の名を見ることができますが、墓誌には林八郎の名前は刻まれていません。戒名は誠徳院一貫明照居士。
獄中、蹶起の心情を訴え、事件の成功と失敗を述べた烈々たる遺書が書き残されています。
※二・二六事件に関する資料の引用元は <図説 2.26事件(河出書房新社)>