エリート街道を進んだ重鎮【日本最大のクーデター事件「二・二六事件」と多磨霊園 ⑥ ~渡邉錠太郎教育総監襲撃~】渡邉錠太郎

陸軍大将であり教育総監を務めた重鎮。学者型の武人として知られ、月給の大半は丸善書店の支払いに当てたといいます。同じタイプの若い将校をかわいがり面倒見も良く、旭川の第七師団長のとき、歩兵第二六連隊に属していた村中孝次にドイツの戦史の翻訳を命じたところ、見事な出来栄えだったので「村中孝次君のために」という色紙を贈ったことがあったといいます。その村中はその後、青年将校のリーダー格として二・二六事件の中心人物となっていったのは皮肉な出来事です。

 渡邉錠太郎(わたなべ・じょうたろう)は愛知県出身。煙草店の和田武右衛門の長男として生まれ、のちに農家の渡辺庄兵衛の養子となりました。家庭が乏しく小学校を中退。陸軍上等看護長になると医師開業免状を与えられるため、医師を目指すため、陸軍の看護卒を志願し入営します。当時の中隊長から優秀であることを評価され陸軍士官候補生に抜擢。陸軍士官学校を卒業(8期)しました。

日露戦争に出征し負傷。大本営参謀、元老の山縣有朋の副官、ドイツ派遣などエリート街道を進み、歩兵第29旅団長、参謀本部第4部長、陸軍大学校校長、第7師団長、航空本部長、台湾軍司令官、軍事参議官などを歴任しました。1935年に真崎甚三郎の更迭後の後任として教育総監に就任します。

真崎甚三郎教育総監更迭は、青年将校ら皇道派は大きな打撃をこうむりました。渡邉はその真崎にかわって教育総監になります。したがって、皇道派がこころよく迎えるわけがありません。その上、渡邉は大変なことをやってしまいます。十月三日に熊本から帰途、郷里の名古屋に立ち寄り、偕行社に部隊長を集めて訓辞を行いました。その中で天皇機関説問題にふれ、「機関という言葉が悪いというが、私はそうは思わない」と言ってしまったのです。その場で部隊長が憤慨、教育総監部の課長が「渡邉大将の私的な見解であり、教育総監として述べたのではない」とフォローをしたいきさつがありました。この話は各地の青年将校の耳にも入り、「国体明徴に関する訓示を批判し、天皇機関説を擁護」と捉えられてしまったのです。

天皇機関説が天皇を統治機構の一機関としているのに対し、国体明徴声明では天皇が統治権の主体であることを明示し、日本が天皇の統治する国家であるとした宣言です。青年将校らは後者を推していました。

教育総監の辞職勧告文を渡邉に送った青年将校は上司から処罰を受け、これが弾圧と受け取られてしまい益々険悪となっていきました。渡邉は釈明をしますが、青年将校たちは渡邉を陸軍における天皇機関説の中心人物としました。これが襲撃の理由です。

 1936年2月26日早朝。四谷仲町で斎藤實内大臣を襲撃したのち、主力は他の決起部隊と合流するため陸軍省に向かいますが、高橋太郎、安田優 両少尉に率いられた約30名の下士官兵は、軽機関銃四挺、小銃約十挺が積まれているトラックで杉並の上荻窪に向かいました。渡邉錠太郎教育総監を襲撃するためです。

 渡邉教育総監襲撃の実質的責任者は安田少尉でした。安田が荻窪の地理に詳しかったからで、渡邉の邸宅のすぐ近所の義兄の邸宅で寄宿していました。襲撃前に事前に渡邉邸の様子や寝ている部屋などを確認しており、聞き込みをしている姿も目撃されています。

 四谷を出発した襲撃隊が渡邉邸に到着したのは午前六時半前。襲撃班は二名の将校以下5,6名で、安田・高橋が先頭にたって表門を襲いました。門はすぐ開きましたが、玄関が開きません。教育総監私邸に泊まり込んでいた護衛憲兵の佐川伍長と上等兵の二名が、襲撃される直前に牛込憲兵分隊からかかってきた電話で襲撃に備え固めていたからです。最初は激しく玄関を叩いていましたが開かないとみるや、中島与兵衛上等兵が機関銃を発射させました。護衛憲兵の二人も拳銃で応戦します。この応戦で安田は右大腿部に貫通銃創を負い、分隊長の木部正義伍長も同じく右大腿に盲管銃創を負いましたが、ともに命に別状はありませんでした。

 応戦の最中「裏口が開いている」という連絡があり、襲撃部隊は全員裏口に廻り、安田が先頭を切って屋内に入ります。渡邉は護衛憲兵からの連絡でこの裏口から脱出しようとしていましたが、先に入られてしまいました。安田が部屋の戸を開けると、そこに鈴子夫人が襖を背に手を拡げて立っていました。安田が渡邉の部屋を尋ねると、「あなた方は何のためにきたのですか、用事があるなら何故玄関から入らないのですか」と大声をあげました。高橋が夫人を払いのけて襖を開放します。部屋は八畳ぐらいの寝室で、渡邉は布団をかぶりその隙間から拳銃を発射しました。応戦の形で銃撃戦が行われましたが、相手が渡邉一人のため43発の弾を撃ち込まれ、瞬く間に決着がつき、高橋が布団の上から軍刀でとどめを刺して引きあげました。数分の出来事であり、玄関にいた護衛憲兵も間に合いませんでした。

渡邉錠太郎: 埋葬場所:12区1種10側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/W/watanabe_jo.html

墓石は「陸軍大将渡邉錠太郎之墓」と刻みます。墓石右手前に「護国偉材」と題された「陸軍大将渡邉錠太郎君碑」が建ちます。護国偉材の意味は「国の平安を守るすぐれた人物」という意味です。戒名は温眞院殿釋巌泉大居士。

【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。

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◆歴史が眠る多磨霊園 http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/
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