
二・二六事件では首相官邸以外にも他の部隊が元老重臣を襲撃しています。内大臣であった斎藤實が四谷区仲町3丁目の私邸で襲撃され殺害されました。
斎藤實(さいとう・まこと)は海軍大将であり第30代内閣総理大臣を務めた重鎮。陸軍の関東軍による満州事変などの混迷した政局において軍部に融和的な政策をとり、満州国を認めなかった国際連盟を脱退、帝人事件による政府批判の高まりから内閣総辞職をしましたが、天皇の側近たる内大臣の地位にあったことから襲撃を受けました。
斎藤實は陸奥国、現在の岩手県水沢市出身。水沢藩士・留守家臣の齋藤耕平の長男として生まれました。海軍兵学校卒業(6期)後、アメリカ留学を経て、初代アメリカ公使館付武官に任命され、政官財界要人の案内や用務援助、重鎮の欧州視察などの通訳などに抜擢され、国際感覚を磨きます。1892年(明治25年)35歳の時に海軍重鎮の仁禮景範の娘の春子(15歳年下)と結婚しました。
日清戦争は侍従武官として、日露戦争では海軍次官に抜擢され、その後も軍政畑を歩みます。第1次西園寺内閣で海軍大臣として初入閣後、5代内閣に留任して在任8年3か月務めました。しかし、在任中に海軍の汚職事件「シーメンス事件」に関わる一連の問題の責任をとらされ、55歳の時に予備役編入で第一線から退けられました。一線を退き5年の歳月が経ち、北海道十勝で農業をやりながら残りの余生を送る準備を始めようとしていた矢先、原敬内閣で朝鮮総督就任の打診があり、原総理自身が説得に訪れたことで現場復帰を果たします。首席全権委員としてジュネーブ海軍軍縮会議に参加や、枢密顧問官などを歴任し、総理大臣となりました。
【齋藤實が総理大臣としての心構えを書にしたためた言葉】
『忍耐は人の宝なり 人に接するには 調和を旨とし 謙譲なる態度を忘るべからず 優越観念は 深く自己の胸底に収め 他に対しては平凡中庸を以てし 自然に他をして敬服せしむるを要す』
1936年(昭和11年)2月26日、斎藤邸襲撃部隊のリーダー坂井直中尉は、歩兵第三連隊第一中隊210名を率いて、警視庁占拠の野中隊より一足早い午前四時十分に営門を出ました。この坂井隊は小銃八分隊、軽機関銃八分隊、機関銃四分隊の編成で、これを第一突撃隊(坂井、麦屋清済少尉)、第二突撃隊(高橋太郎少尉、安田優少尉)、警戒隊とに分かれました。 この警戒隊の指揮は末吉常次曹長が執る予定でしたが、出発直前で兵器係の中島正二軍曹と共に逃げ出し、第一中隊長矢野正俊大尉宅に駆け付け、坂井中尉が部隊を連れだすことを知らせてしまいます。後に引けない坂井は、警戒隊は各分隊長責任として決行に臨みました。
斎藤私邸は四谷見附に近い四谷仲町三丁目(現在の新宿区若葉一丁目)。正面は簡単に開いたため、急きょ全部隊が正面から入ります。邸内には三十名近い警官が詰所にいましたが、突撃隊の殺到に仰天し、たちまち武装を解除。突撃隊は軽機関銃などで雨戸を壊し乱入し、斎藤夫妻がいる二階の寝室に向かいました。
春子夫人が物音に驚き戸を閉めましたが、安田少尉が戸を開け一同中へ這入るや、春子夫人が一同の前に両手を挙げて立ち塞がり、「待ってください」と制止しました。 部屋の奥の方に寝巻姿の斎藤が起きてきた様子が見え、春子夫人を押しのけ、安田少尉が拳銃を一発放ちました。続いて坂井中尉と高橋少尉が加わり乱射。斎藤は二、三歩後ろへ退き、倒れました。この時、春子夫人は身を以て斎藤の身体をかばい、機関銃の筒先をもち、「斎藤の命は国家に捧げた者です。時期が来ればさしあげます。まだその時ではありません。斎藤を撃つなら私を殺してください」と叫び続けたといいます。しかし、青年将校たちは春子夫人を押しのけて射撃を続けました。 坂井はとどめを刺そうとしましたが、春子夫人が離れないため、目的は充分に果たしたものと思い、とどめを刺さずに寝室より引き下がりました。反乱軍は正門前に集結し、一同と共に天皇陛下万歳を三唱しました。時に午前五時十五分。襲撃はわずか十五分で終わりました。この青年将校たちはその後すぐに、杉並区上荻窪に移動し、渡邉錠太郎の襲撃に向かいました。
結果、斎藤實は41発もの弾丸を撃ち込まれ絶命。享年77歳。青年将校たちの間で斎藤以外の人には決して負傷させまいとあらかじめ申し合わせしていましたが、夫をかばい身を投げ出してきた春子夫人も、流れ弾で両手と背中を撃たれて負傷しました。妻の春子は1971年(昭和46年)98歳まで長生きし、多磨霊園に眠っています。
斎藤 實 (さいとう まこと)1858.12.2(安政5.10.27)~ 1936.2.26(昭和11) 埋葬場所:7区1種2側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/S/saitou_ma.html
墓石は「従一位大勲位子爵齋藤實墓」と刻みます。水沢大林寺・小山崎墓地にも分骨されています。
天皇陛下より誄(るい)を賜り、墓石右側には「御誄」の碑が建ちます。
【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。