
1934年7月8日(昭和9年)岡田啓介は、第32代内閣総理大臣に任命され組閣しました。岡田内閣は官僚的な色彩を強め、在任中に美濃部達吉(多磨霊園に眠る)の天皇機関説をめぐる国体明徴問題が起こり、内閣倒閣を狙う陸軍の皇道派、箕田胸喜など平沼騏一郎(多磨霊園に眠る)周辺の国家主義勢力、立憲政友会などから攻撃された他、在満機構改組問題、日本の華北進出、日本の海軍軍縮条約廃棄などの難問をかかえ、斬新的な国内体制のファッショ化を進めました。そんな折に発生したのが二・二六事件でした。
岡田啓介は福井県出身。福井藩士の岡田喜藤太の長男として生まれます。旧制福井中学卒業後、共立学校に入学。その時の英語教師が組閣で外務大臣となり二・二六事件で命を落とすことになる高橋是清(多磨霊園に眠る)であったことは不思議な縁を感じます。
岡田はその後、軍人を目指し海軍士官学校を卒業(15期)。日清戦争従軍後に海軍大学校卒業(2期)し、日露戦争の日本海海戦に参加しました。水雷学校長、春日・鹿島両艦長、水戦司令官、海軍省人事局長、艦政局長、海軍艦政本部長、海軍次官などを歴任し、第一艦隊 兼 連合艦隊長官に就任しました。田中義一(多磨霊園に眠る)や斎藤實(多磨霊園に眠る) 両内閣で海軍大臣を務め、海軍軍備の拡大に努力をします。この流れで総理大臣となりました。
1936年(昭和11年)2月26日、首相官邸で岡田は非常ベルの音で午前五時頃に目が覚めました。前夜に福井から上京して泊まっていた義弟の松尾伝造が血相を変えて寝室に飛び込んできます。松尾は岡田の手をひいて庭に飛び出しましたが、すでに兵士がいたため、官邸の中に逃げ込み、台所から浴室に入ります。すでに邸内には兵士がたくさんおり、外に逃げられそうもありません。
首相官邸を襲撃した栗原安秀中尉率いる歩兵第一連隊は、護衛警官の村上嘉茂左衛門巡査部長や土井清松巡査、小館喜代松巡査、清水与四郎巡査と市街戦さながらの銃撃戦を繰り広げ射殺。岡田首相暗殺のため本人を探しています。松尾は岡田を炊事場に避難させ、中庭に出て戸袋のかげに身を寄せて隠れていましたが、すぐに発見され、第3小隊を率いていた林八郎少尉の命により二発の銃弾を受けました。松尾は鮮血にまみれながら壁に寄りかかるように正座をします。現場に駆けつけた栗原はすぐにとどめをさすように命令しましたが、凄い形相に圧倒され引き金を引くのに時間がかかったといいます。これら松尾の態度や死後の写真の照合により、容姿が似ていた松尾を岡田と間違え殺害したものと考え、反乱兵は目的を達成したと勘違いをしました。一部始終を目撃していた岡田は、相手が油断している間、寝室に入り着替えをし、女中部屋の押し入れに隠れます。
事件が起きたとき、迫水久常秘書官は首相官邸に隣接する官舎の二階から官邸の様子を見ていました。「とうとう仕留めたぞ」という反乱兵の叫びを聞き、いても立ってもおれず、憲兵に「首相の遺骸でもいいから見られるように処置してくれ」と頼みました。栗原の許可も取り、福田耕秘書官と共に官邸に入ります。首相の寝室で遺骸を見た瞬間、迫水はその遺骸はすぐに松尾大佐であることが確認できました。しかし、反乱兵はその事実に気がついていないため、総理は生きているに違いないとも確信しました。もっともらしくハンカチで目頭を押さえながら寝室を出る際に、栗原が「総理の死体に間違いありませんね」と聞いてきました。「相違ありません」と福田が答え、「女中が二人いたはずだが」と切り替えしました。栗原は女中を引き取るようにと伝え、迫水と福田は女中部屋に案内されます。女中部屋には押し入れの襖を背にして秋本サクと府川キヌの二人の女中が正座をしていました。迫水は「怪我はなかったかね?」と言葉をかけたところ、サクは「お怪我はございませんでした」と返答。その言葉で迫水は、総理は無事であり、押し入れの中にいるに違いないと察知します。とっさに大きな声で部屋に付いてきた林少尉に「では総理の最期の状況を話して下さいませんか」と言って部屋を出ました。この間、福田がサクに総理の安否を確認しています。岡田の生存を確認した迫水は、湯浅内大臣に報告し、湯浅から天皇にも奏上されました。
岡田の生存は迫水たちよりも先に憲兵隊が確認していました。青柳憲兵軍曹と篠田憲兵上等兵が、女中が押し入れの前に座って動こうとしないことを不審に思い、強引に唐紙を開けたところ、岡田が胡坐をかいていました。すぐに唐紙を閉め篠田は「そのままにしておきなさい」と言い残し、立ち去ります。篠田は上官の小坂慶介曹長に報告し、小坂は反乱軍に悟られないように確認作業を行った結果、岡田首相であることを確証。この事実を森分隊長に報告し、迫水と福田と共に共同救出作戦を行うこととなります。
翌日、福田は栗原に遺族や親戚の弔問の許可をとります。弔問客には年寄りばかり十人集め、絶対に声を出さないようにと誓わせます。反乱軍の切れ間を見計らって、小坂の合図で、女中部屋の付近に佇んでいる青柳が岡田を女中部屋から出し、小坂は岡田を、病人をいたわるように抱え外に出しました。 小坂は「遺骸を見ちゃあいかんと言ったのに、仰天したんだ、困った老人だ」と、わざと門番をしていた反乱軍に聞こえるように言い、早く病院まで連れていくと自動車を呼び寄せ、その車に福田も飛び乗り脱出に成功させました。脱出に成功した岡田と福田は、懇意の本郷の真浄寺で休憩した後、下落合に住む同郷の実業家の佐々木久二邸に身を隠しました。
岡田は二・二六事件の責任を負い3月9日内閣総辞職。以後、重臣となり、首相の銓衡にあたりました。太平洋戦争中は和平工作を画策し、戦争終結に尽力。1952年サンフランシスコ講和条約が調印され、日本が独立復帰した直後に逝去しました。享年84歳。
岡田 啓介:埋葬場所:9区1種9側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/okada_ke.html
戒名は真光院殿仁誉義岳啓道大居士。没後、昭和天皇より御沙汰書と呼ばれるご弔辞を賜りました。岡田家の墓所内には、「御沙汰書」の碑が建っています。なお岡田家墓所は、1964年(昭和39年)福井瑞源寺より多磨霊園に改葬されました。
※二・二六事件に関する資料の引用元は <図説 2.26事件(河出書房新社)>
【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。