騙され奴隷になるもネイティブな英語力を手に入れた【日本最大のクーデター事件「二・二六事件」と多磨霊園 ① 】高橋是清×仁翁閣

 1936年(昭和11年)2月26日から29日にかけて、皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが1,483名の下士官兵を率い、「昭和維新」と称して、明治維新のような天皇を中心とした近代的民主国家の復元のために、天皇の取り巻きによる独裁状態の政府中枢を襲ったクーデター未遂事件が起こりました。陸軍皇道派の青年将校らが1483名の兵を率い、「昭和維新断行 尊皇討奸」を掲げ、武力を以て元老重臣を殺害すれば、天皇親政が実現し、腐敗が収束すると考え起こした反乱事件です。

 この「二・二六事件」で、岡田啓介(内閣総理大臣)、鈴木貫太郎(侍従長)、斎藤實(内大臣)、高橋是清(大蔵大臣)、渡邉錠太郎(陸軍教育総監)、牧野伸顕(前内大臣)、後藤文夫(内務大臣)が狙われ、斎藤實、高橋是清、渡邉錠太郎が殺害されました。殺害された人物は多磨霊園に眠っています。また、首相官邸襲撃を受けた際に、岡田啓介首相の護衛警官を務めていた村上嘉茂左衛門巡査部長や土井清松巡査らが殉職。その首相官邸襲撃の指揮を執った林八郎や、岡田首相救出に一役買った迫水久常、それら関わった人物たちが多磨霊園に眠っています。多磨霊園にはその他にも、二・二六事件の首謀者として刑死した社会主義者の北一輝の弟で哲学者の北昤吉、反乱軍に同情的な態度をとって左遷された荒木貞夫陸軍大将や山下奉文陸軍大将、父親が殺害され現場に遭遇してしまったシスターとして著名となる渡邉和子らも多磨霊園に眠っています。このように「二・二六事件」関係者の多くが多磨霊園とも深い結びつきがあります。「二・二六事件」をひとつの軸として、多磨霊園に眠る人物たちを見ていきましょう。まずは高橋是清を紹介します。

 高橋是清(たかはし・これきよ)は岡田啓介の内閣にて7度目の大蔵大臣に就任します。主導してきたリフレーション政策はほぼ所期の目的を達しましたが、これに伴い高率のインフレーションの発生が予見されたため、これを抑えるべく、軍事予算の縮小を図ったところ軍部の恨みを買い、二・二六事件において標的の一人とされてしまいました。結果、赤坂の自宅二階で反乱軍の青年将校らに胸を6発撃たれ暗殺されてしまいます。高橋是清はその容姿から「ダルマ」と愛称されていましたが、彼の人生はまさにダルマのような七転八倒な人生です。

高橋是清は江戸芝中門前町(現在の東京都港区芝大門)出身。幕府御用絵師の川村庄右衛門(当時47歳)と、行儀見習いのために川村家へ奉公していた きん(当時16歳)の不義の子として生まれます。庄右衛門の妻が同情し世話をしてくれていましたが、生後間もなく仙台藩士の高橋覚治是忠の養子となりました。

 1867年(慶応3年)藩留学生としてアメリカに渡ります。その時に仲介をしたアメリカ人貿易商には学費や渡航費を着服され、ホームステイ先の両親に騙され意味も分からずサインをさせられたところ、それが奴隷契約書であり、オークランドのブラウン家に売られました。奴隷として働かされましたが、ネイティブな英語力を身に付けることができ、一年後に脱出して帰国します。

 本場事込みの語学力が認められ、文部省に入省し十等出仕となって、16歳で英語教師として教壇に立ちました。共立学校では初代校長をも一時務めています。しかし、若気の至り、酒と芸者遊びに溺れ教師をクビとなり、芸者のたいこもちになります。体たらくに溺れていたところその能力がもったいないと仲介され、農商務省の外局として設置された特許局の初代特許局長に抜擢され就任します。お金に不自由しなくなった是清は、更に資産を増やそうと、一攫千金を狙いペルーの銀山開発に乗り出しましたが、すでに廃坑の銀山をつかまされ詐欺にあい失敗、一文無しになります。失意の底に沈んでいた是清に、才覚を認めていた川田小一郎が声をかけ、日本銀行に入行。日露戦争が発生した際には日銀副総裁として戦費調達のために戦時外債募集を行い、ジェイコブ・シフなどの人脈が外債を引き受け、公債募集を13億円もの戦費調達として成功させました。

 以後は、貴族院議員に勅選され、男爵となり(後に子爵)、日銀総裁に就任し、7度の大蔵大臣、農商務大臣、内閣総理大臣などを歴任しました。1951年から発行された五十円紙幣では高橋是清の肖像が採用されています。

 二・二六事件の舞台となった高橋是清邸は、1902年(明治35年)に港区赤坂7丁目に建築されました。二・二六事件から二年後、1938年(昭和13年)に東京市へ遺族から寄贈されます。主屋部分は3年後、是清が眠る多磨霊園に移築され、有料休憩所「仁翁閣」として、1975年(昭和50年)まで活躍しました。1993年(平成5年)江戸東京たてもの園(小金井公園内)に復元され、現在に至ります。

高橋是清:埋葬場所:8区1種2側 
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/T/takahashi_ko.html

【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。


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