熱狂的な女性ファンが多くいた人気作家の愛の果て【心中を選んだ人たち② 有島武郎心中事件】 有島武郎

 今の時代では考えられないほど、男女の恋愛事情、身分の問題、立場の問題、様々な問題によって「心中」を選んでしまった人たちが多磨霊園には眠ります。人気作家という立場、まだ風当たりが強かった職業婦人、そして不貞の許さぬ時代。その中で心中という選択を選んだのが作家の有島武郎です。

 有島武郎(ありしま・たけお)は東京小石川(文京区)出身。父は薩摩藩士で大蔵官僚の有島武(同じ墓に眠ります)の長男。弟に洋画家・小説家の有島生馬、小説家の里見とん がいます。最初は英語講師をしていましたが、弟を通じて文豪と出会い刺激となり、人道主義の立場に立ち「白樺」同人として作家活動を始めます。白樺派の中心人物として『かんかん虫』『お末の死』などの小説や評論を発表しました。

 1909年(明治42年)陸軍大将で男爵の神尾光臣の次女で10歳年下の安子と結婚します。安子が3男を出産後より体調を崩し、肺結核を発病。療養むなしく、1916年(大正5年)妻の安子は武郎に長い遺書を残して27歳の若さで没しました。遺書には夫の作家として大成する願いが綴られていました。

 武郎は安子の死を契機に本格的に文学に打ち込み、小説『カインの末裔』『生れ出づる悩み』『迷路』、評論『惜しみなく愛は奪う』など、下層階級の女性を描いた作品を多く発表し人気を得ます。1919年発表の『或る女』で文壇の頂点にまで昇りました。愛するがゆえの苦悩と救済を求める心の彷徨を描く作家の姿、幼い三人の子供を抱えながらも独身主義を貫く潔癖さに、熱狂的な女性ファンが多くいました。しかし、「純粋にして潔癖な愛」という有島流の解釈に、武郎自身が息苦しさを感じてもいました。段々と創作力が衰え、小説『星座』を執筆途中で筆を絶ちます。

 そんな時、1922年冬、婦人公論記者の人妻の波多野秋子が担当となります。当初は武郎が毛嫌いをしていましたが、劇場で再開し意気投合、以降、秋子は武郎が主宰する雑誌の編集を手伝いながら、自身に子供のない人妻は三人の子供たちを何かと世話をしました。こうして武郎と秋子の関係は、作家と編集者というには、あまりに親密なものとなっていきます。

 二人の関係は、やがて秋子の夫であり実業家の波多野春房の知るところとなります。そもそも、華族出身の妻を離籍させ秋子を迎え入れた後、彼女を青山学院に通わせ、職業婦人としての自立を助けたのは、すべてこの15歳上の夫の力です。ことの顛末を知った春房は、1923年6月6日に武郎と秋子を事務所に呼び出しました。春房は商人柄、無償で提供しないという持論を始め、11年も妻として扶養し教育もしてきたと、武郎に金銭を要求してきました。更に、人気作家に妻を取られるという恥をさらされては会社に勤めることもできなくなるという理由で辞表も見せつけ、一生金で苦しめるつもりだと脅迫をしてきました。

 当時、夫ある身の女の不貞は姦通の罪に問われ、男女双方に大きな制裁を与えられる時代です。春房が訴えれば二人は監獄行きであり、これが世間の明るみにでれば、クリスチャンとして貞節と潔癖を重んじてきた武郎の作家生命が、侮蔑と嘲笑にまみれることは見えていました。しかし、武郎は、春房の報復のような恐喝に対して、「自分が命がけで愛している女を、僕は金に換算する屈辱を忍び得ない」と金銭で愛を汚すことを拒否するのです。要求を突っぱねられた春房は、警察に突き出すという脅しをかけましたが、武郎は「よろしい、行こう」と動じず、この想定外の態度に春房がたじろぎ、支払いを拒むなら兄弟たちを呼びつけると罵るも、武郎は秋子を連れてその場から離れました。

 その二日後の6月8日午後、二人は誰にも行き先を伝えずに軽井沢へと向かいました。その翌朝未明には、軽井沢にある有島武郎の山荘の愛宕山の別荘・浄月庵の応接間で二人は首を吊りました。秋子と出逢って7ヶ月、二人は心中をする選択をしたのです。亡骸が別荘の管理人に発見されたのは1ヶ月後の7月7日でした。梅雨時で二人の身体は身元が分からぬほど腐乱し朽ち果て、遺書の存在でようやく分かったといいます。有島武郎は享年45歳、波多野秋子は享年29歳でした。

 当時の報道は、心中という醜聞に触れて、秋子を知る人々は誰もがその美貌に言及しています。「美しい魔性の女が、人妻であるにも関わらず、亡き妻への愛を貫く偉大な作家を籠絡(ろうらく)した・・・。」大半がそのような視点に立って報道しました。不貞の許さぬ時代であり、職業婦人の風当たりが強い時代にあって、その風を真っ向から受け、武郎の死の責任を秋子が受けてつるし上げられたのです。後に加藤シヅエらが、秋子の自分宛の遺書を記者会見で公表し、秋子の気持ちを代弁し擁護するなど、事実が少しずつ明らかになってきましたが、世に認識されるまでには時間がかかりました。このような背景があったためか、多磨霊園の有島家の墓所内にある武郎のレリーフの横には、潔癖な愛と象徴された安子のレリーフが掲げられ隣り合っています。

有島武郎 埋葬場所: 10区 1種 3側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/arishima_t.html


 
*お墓は入り口正面に両親の有島武・幸子の墓、左に「有嶋行直家累世之墓」、その向かい(道に背を向けて)武郎と、共に心中をした秋子ではなく、若くして亡くなった妻の安子とのブロンズがはめ込まれているお墓があります。

【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。


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