
杉原千畝(すぎはら ちうね)の名前を聞いたことがある人は多いと思います。1939年(昭和14年)リトアニア在カウナス日本領事館領事代理に着任し、翌年より外務省の訓命に反し「人道上、どうしても拒否できない」という理由で、受給要件を満たしていない者に対しても独断で通過査証の発給を始め、ナチス・ドイツに迫害されていたユダヤ人たちを救うため「命のビザ」を書き続け、その数は6,000人もの命を救ったという人物です。
ここまでの話しは有名ですが、ビザを得たユダヤ人難民たちがどういう経路で逃げたのか、その後どうなったのかまで詳しく語れる人は少ないでしょう。ビザを得ることで国外脱出を果たしたユダヤ人難民は、シベリア鉄道に乗りウラジオストクに到着。その後、船で福井県敦賀市に入り、日本到着後は横浜、神戸港などから上海、アメリカ、カナダ、アルゼンチン、パレスチナへと脱出を試みたのです。
着の身着のまま逃げてきたユダヤ人たちの資金面やエスコート、特にウラジオストクから日本に入る船などはどうしたのでしょうか。実は在米ユダヤ協会では、悲惨な同胞を一人でも多く助け出したいと、ユダヤ難民救援会を組織し、同協会の保証を条件としてアメリカ政府の許可の下に、ウォルター・プラウンド社(後にトーマス・クック社に合併)を通じて、ジャパン・ツーリスト・ビューローのニューヨーク支店に斡旋の協力を依頼し、東京本社に伝わり要請に応えた背景があります。1940年9月10日(昭和15年)この会社の入社二年目の大迫辰雄がアシスタント・パーサーという立場で、ユダヤ人輸送のため旧ソ連・ウラジオストク-敦賀 間の輸送船の乗組員に配属されました。
大迫辰雄は東京出身。青山学院大学卒業後、外国人観光客を日本に誘致する目的の旅行会社ジャパン・ツーリスト・ビューロー(後の日本交通公社:JTB)に入社し添乗員となります。大迫は乗船してくるユダヤ人を見てビューローマンとして責任を持って日本に送り届けようと決意。1940年9月から1941年6月まで、片道2泊3日の荒れ狂う日本海の航路を29回往復し、約6,000人にも及ぶユダヤ人を出航前・下船後の手続きや乗客の世話などを行い、ビューローマンの中心的な役割を担いました。日本海の海は荒く体調を害する病人が続出する中、ユダヤ人一人ひとりのリストをもとに船内で確認作業、献身的に寄り添い支えました。またユダヤ人協会からJTBに送られてきた現金を配り、更には日本上陸後の宿の手配も行いました。日本にたどり着いたユダヤ人の多くは「敦賀が天国に見えた」と言っています。大迫の行動を見たユダヤ人が「何故、民間人の貴方が親切にしてくれるのか」という質問に、「安全に日本に届けるのが私の役目です」と答えました。後に大迫はユダヤ系の新聞に“救世主”と紹介、取り上げられています。
自分の国を追われ日本に逃れてきた亡命者をかくまったのは新宿中村屋の相馬愛蔵(そうま・あいぞう)です。長野県出身。1901年(明治34年)に東大赤門前の本郷中村屋を譲り受け、パン屋を始め、1904年に「クリームパン」「クリームワッフル」を創案。1907年に新宿に支店を開設し、1909年より新宿の支店を現在地に移し本店としました。店の裏にアトリエをつくり多くの文化人の交流の場の提供もしていました。出入りする人が多かったことから、国を追われた芸術家や亡命者の保護も行います。
1915年(大正4年)にインドから亡命したインド独立運動の志士のラス・ビハリ・ボースを筆頭に、韓国の林圭、ロシアの詩人ニンツア、盲目の詩人エロシェンコが身を寄せます。1923年の関東大震災時には朝鮮人の保護もしました。新宿中村屋は身を寄せる異人から学び、インド式カリー、ボルシチ、中華饅頭、月餅、ロシヤチョコレート、朝鮮松の実入りカステラなど新製品の考案。これら国際商品は、新宿中村屋のデパートの進出の成功の後押しとなりました。
ラス・ビハリ・ボースはインドのベンゴール出身。階級の厳重なインドでボースの家は四階級の第二なる王族階級でした。1908年祖国をイギリスの圧制より救うため民族革命運動に投じ、1912年ラホールに於て印度総督ハーディング卿に爆弾を投じ未遂事件を起こします。英国政府はボースの首に一万二千ルピーの懸賞金をかけました。そのため1915年に日本に亡命。日英同盟の関係で大隈内閣はボースに国外退去を命じましたが、アジア運動庇護者の頭山満や内田良平、新宿中村屋にかくまってもらいます。相馬がボースを保護したきっかけは、たまたまパンを買いに来て慣れ染みとなっていた内田良平の友人に、国外退去処分で追われていたボースをかくまってもいいと語ったことからといいます。ボースは日英同盟が破棄され自由になると、連絡役をつとめてくれていた相馬の長女の俊子と結婚。日本に帰化し「防須」と名乗りました。戦時中はインド独立運動総裁として日本に協力。しかし、俊子は過労で28歳の若さで没し、一人息子も戦死、ボースもインド独立前に亡くなりました。没2年後の1947年インドは独立を成就しました。
ラス・ビハリ・ボース 埋葬場所: 1区 1種 6側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/H/bosu_b.html
内田良平(うちだ・りょうへい)は福岡出身。国家主義運動家として黒龍会を組織し、日露開戦を主張。
また日韓合邦を推進した黒幕として活動。辛亥革命に際しては孫文を助け、革命派を援助しました。
後に大日本生産党総裁に就任。常に国家主義の代表者として国民運動の中心的存在でした。
内田良平 埋葬場所: 14区 1種 9側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/uchida_ryo.html
大迫辰雄 埋葬場所: 11区 2種 32側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/oosako_ta.html
相馬愛蔵 埋葬場所: 8区 1種 5側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/S/souma_k.html
【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。