
『撞球』・・・。「どうきゅう」と読みます。ビリヤードを漢字でこのように表記します。「球撞き・玉突き」と呼ぶこともあるビリヤードは日本でも一時ブームとなり、実際にやったことがある人も多いのではないでしょうか。
日本におけるビリヤードの歴史は江戸時代末期、長崎出島にオランダ人がポケットビリヤードを持ち込んだことで知られるようになります。明治に入り、東京で初めてのビリヤード場が精養軒にできました。1877年(明治10年)国産のビリヤード・テーブルが初めて製作され普及していきます。
1913年(大正2年)アメリカでボークライン選手権大会が開催されるにあたり、山田浩二が招待されました。ボークラインとは穴の空いていない台を使用し、手球(プレーヤーが撞く球)一つと的球二つを用いる三つ球競技のことです。山田はニューヨークで開催された世界ボークライン選手権に出場し、7年間無敗だったウィリアム・ホッペ(アメリカ)や、ジャン・ブルノー(オーストリア)を破り、3位になる偉業を成し遂げたのです。
山田浩二は東京出身。ビリヤードにのめり込み、22歳の時にドイツに渡り修行をしたツワモノです。日本での活躍は遠いアメリカでも噂となり招聘された背景があります。山田は帰国後、東京の丸ビルに撞球場を開設して、ボークラインの普及、後進の指導にあたりました。1934(昭和9年)には『最新撞球術』の著書も出しています。1941年初代の撞球名人位を贈られた同年、急逝してしまいました。享年54歳でした。
「ボークライン」で世界に名を轟かせたのが山田浩二であるのなら、「スリークッション」を広めたパイオニアとされ、「日本スリークッションの父」と称されたのが松山金嶺です。「スリークッション」とは穴の空いていない台を用い、三つ球を使用、二つ目の的球に手球が当たるまでに、手球を3回以上クッション(壁)に入れるのが基本ルールとされる競技のことです。
松山金嶺は京都府出身。本名は松山為俊。幼少期に父を亡くし、東京の伯父のもとに預けられたことがきっかけでビリヤードと出会います。16歳でプロ・ビリヤード界に入り、19歳の若さで単身アメリカに渡ります。渡米にあたり日本名の発音は難しいであろうと考え、アメリカ国民に馴染みが深いマッキンレーの韻を踏んで名前を「松山金嶺」(まつやまきんれい)としました。
困苦に堪えて生活する中、着々と力をつけ名手となります。1924年(大正13年)全米ジュニア選手権を制し、1926年の世界撞球技選手権で二位の名誉ある金字塔を打ち立てました。1934年の全米スリークッション選手権の連覇を狙うウェルカー・カクランを破って優勝。 在米18年間で全米ならず全世界に撞球技名人とし名を馳せ、1938(昭和13年)に凱旋帰国します。
帰国後はボークラインが一般的であった日本国内でスリークッションを広め、全日本スリークッション選手権の実現に尽力します。また大会でも、第1回大会から4連覇を達成し、刊行した『松山金嶺の撞球』の本はバイブルとされ親しまれました。戦後も二回に渡り、アメリカビリヤーズコングレスの招致を受けて渡米し、世界選手権大会に参加。1953年に再び世界第二位にランクし、日本人として全世界にグレート松山の名を轟かしました。しかし、同年、東京世田谷区下北沢の「松山ビリヤード・クラブ」経営中に狭心症のため急逝しました。
享年56歳でした。
山田浩二 埋葬場所: 19区 1種 6側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/Y/yamada_ko.html
松山金嶺 埋葬場所: 26区 1種 17側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/M/matsuyama_k.html
【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。