
飛行機が当たり前の時代になった現代でも、「何で重たい金属の塊が空に浮くのか?」と、どこかしらに気持ち悪い感覚があり、1985年に起きた日航機墜落事故のトラウマから飛行機が怖いという人もいると思います。
※日本では日航機墜落事故以降30年以上、飛行機事故は起きていません。
アメリカの国家運輸安全委員会 (NTSB) の行った調査によると、飛行機で死亡事故に遭遇する確率は0.0009%=10万分の1未満との統計です。2017年の日本の交通事故死者(事故発生から24時間以内に死亡)の数はおよそ3700人でした。日本の人口が1億2千万人程度なので、1年間で交通事故にて死亡する割合は約0.003%、3万3千人に1人と算出できます。飛行機事故と比較すると、自動車の交通事故で亡くなる確率の方が高いことがわかります。そのため、専門家は飛行機の事故発生率が極めて低く、最も安全な乗り物と現代では言われています。
戦争中の飛行機の殉職やパイロットの訓練中の事故などを除き、統計学とは裏腹に民間の飛行機に乗りあわせ事故によって命を落としてしまった人たちがいます。今回は多磨霊園に眠る飛行機事故に遭遇してしまった人を紹介します。
1952年(昭和27年)4月9日午前8時7分頃、羽田発大阪経由福岡行きの日本航空「もく星」号マーチン202型機(N93043)が伊豆大島の三原山御神火茶屋付近に墜落しました。この事故で運航乗務員2名、客室乗務員1名、職員1名、乗客33名(福岡行き26名・大阪行き7名)、計37名全員が死亡しました。当時日本の航空界は、第二次世界大戦敗戦により、直接の航空活動を禁止されており、運航はノースウエスト航空に日本航空は委託。機材、運航乗務員とも米国人でした。この事故に乗り合わせており命を落としてしまったのが、活動弁士、漫談師として一世を風靡した大辻司郎です。
大辻司郎は東京日本橋出身。活動弁士の染井三郎に弟子入りし、東京浅草の帝国館で初舞台。洋画喜劇を得意としていました。当時の映画は活動写真すなわち無声映画(サイレント映画)で、活動弁士が上映中にその内容を語りで表現して解説する専門の職業的解説者です。「胸に一物(いちもつ)、手に荷物」「勝手知ったる他人の家」「アノデスネ。ボクデスネ」などの迷文句と奇声で有名になり、「やっちゃうです」「ありがとです」というような「てにをは」を抜くしゃべり方を発明し、大正時代に人気を博しました。停電で映画が映らなくなった時に、場つなぎのおしゃべりをしたのが客に喜ばれ、『漫談』という話芸が生まれるきっかけにもなりました。
事故は消息を絶ってから残骸が発見されるまで情報が錯綜し、「乗客全員無事」などの誤報や、公演先の予定であった長崎の地方新聞では「危うく助かった大辻司郎氏」という生還記事が掲載されるなど混乱しました。結果は墜落事故死であり享年55歳でした。
また、同じ飛行機に搭乗していた八幡製鉄所社長の三鬼隆も、この事故で亡くなっています。
三鬼隆は岩手県花巻市出身。東京帝国大学を卒業し、田山鉱山に入社。1945年八幡製鉄所所長、翌年は日本製鉄社長に就任。その後も全国鉄鋼復興会議議長や日本鉄鋼連合会会長、日経連第2代会長などを歴任。鉄鋼界の大御所といわれていました。享年60歳。
大辻司郎 埋葬場所: 20区 1種 20側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/ootsuji_s.html
三鬼 隆 埋葬場所: 3区 1種 15側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/M/miki_t.html
【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。