
東大寺の大仏様は、正式名を”盧舎那仏(るしゃなぶつ)”といい、その意味は「あまねく光の仏」。釈尊が悟りを開いて最初に説法したとされる「華厳経(けごんきょう)」の教えでは、この大仏が宇宙全体を包摂するものとしています。東大寺の大仏様が見守る中、月明かり美しい舞台で、希代の名優十八代目・中村勘三郎さんが舞台に残した二つの魂、中村勘九郎さん、中村七之助さんが勇壮、可憐に舞う「東大寺世界遺産登録20周年記念 中村勘九郎 中村七之助 東大寺歌舞伎」が、2018年9月23日に開催されました。
穏やかな時間が流れる春の東大寺
修学旅行での懐かしい思い出の中に、東大寺に来て自由に闊歩する鹿の群れに驚いた経験もあるのではないでしょうか。
日本の歴史や建築物の重要性・希少性に無頓着な学生時代には、東大寺や大仏様の圧倒的な大きさのみを朧気な感想として抱いたかもしれません。社会に入り、様々な経験をして大人になって訪れる東大寺は、きっと多様な魅力を与えてくれるでしょう。
今年の春に訪れた東大寺は、桜があちらこちらに咲き、穏やかな時間が流れ、学生時代には感じなかった情緒や包み込むような安心感を覚え、僧侶の紫の袈裟の後ろ姿に、身が引き締まる空気を感じ、その印象はより深いものになりました。
大仏様と大仏殿前に広がる極上の観客席
そして、中秋の名月の前日に、忘れることのできない記憶を、東大寺で刻むことになりました。内乱や後継問題、自然災害に苦しんだ聖武天皇が造り、度々の戦火に合う度に復興されて来た大仏様と大仏殿前の空間が、今宵の特別で極上の観客席となります。
通常、盂蘭盆(うらぼん)と大晦日から元旦にしか開かれない観相窓(かんそうまど)が、今回の歌舞伎奉納では開扉され、多くの人々が訪れて手を合わす光景が見られました。
春の大仏像は、どこかやさしげな表情をしていましたが、初秋の月夜に照らされた大仏像は荘厳で、すいこまれそうな気高さを感じます。観客は、その会場の雰囲気に、感嘆とため息を漏らし、その場にいることの至福感を覚えます。
穏やかな時間が流れる春の東大寺
今宵、中村七之助さんが演じる「藤娘」、中村勘九郎さんが親獅子を演じる「連獅子」は、今年の6月~7月のスペイン公演でも、スタンディングオベーション、拍手、喝さいが鳴り止まず、地元紙では「俳優、音楽、踊り、すべてが魅力的」と、国境を越えて大絶賛を浴びた演目です。
他の歌舞伎役者の家と同様、父の勘三郎さんは、役者として一人前に育てるために、二人の息子に厳しく稽古をつけていたといいます。現在は、主に、勘九郎さんが立役、七之助さんが女形を演じる機会が多いものの、勘九郎さん、七之助さんともに、立役、女形と定めることなく様々な役を務めてきました。
東大寺の大仏殿の前に舞台を置き、藤の花が浮かび上がり、頬をなでる風と草の香り、静けさの中に、鈴虫の音色だけが響きます。
七之助さんの藤娘が舞台下手の角切銀杏(すみきりいちょう)の揚幕から登場すると、夕闇に包まれた大仏殿基壇上が花が咲いたように輝き、あまりに可憐な姿に、客席からざわめきが起こります。開演するまでは、薄曇りに月が隠れていましたが、藤娘が始まると雲間から待ち宵の月が顔を覗かせました。
七之助さんの女形としての魅力は、細い身体と切れ長の目にほっそりした顔立ちでしょう。少し寂しげで美しい風情の役がよく似合います。舞台には大きな松の木から藤の花が垂れ下がっています。長唄にのせて、意のままにならない恋しい男性の心を嘆き、ほんのりと酒に酔っていく舞踊の美しさは、この演目の由来通り、まさに絵から抜け出したかのようです。どの瞬間を切り取っても美しい藤娘。
きりりと澄んだ水のような存在で、娘の感情を、手のしなやかな動き、眼線、腰の落とし方で艶やかに表現しています。東大寺の大仏様と大仏殿を背に舞う七之助さんの藤娘が、本当に藤の妖精のように、月夜に溶け込みました。
M.Sawaguchi
ライター、輸出ビジネスアドバイザーとして活動中。
早稲田大学文学部にて演劇を専攻し、能、狂言、歌舞伎、浄瑠璃といった日本演劇、西洋演劇、映画について学ぶ。一方で、海外への興味も深く、渡航歴は30か国以上。様々な価値観に触れるうち、逆に興味の対象が日本へと広がる。現在は、外資系企業での国際ビジネス経験を元に、実際に各地に足を運び、日本各地発の魅力ある人、活動、ものについて、その魅力を伝えることで世界が結ばれていくことを願い、心を込めて発信中。