
「3人の撃墜王」 加藤建夫×笹井醇一×小林照彦
「撃墜王」とは戦争中に多数の敵機を撃墜したパイロットに与えられる称号のことです。航空機が戦争に使用された第一次世界大戦より、10機以上撃墜した者をフランスでアス(切り札)と呼んだのが起源とされています。現在は5機以上の撃墜をした者を世界では「エース・パイロット」と呼び称されています。
今回は多磨霊園に眠る撃墜王として3名を紹介します。まず一人目が「隼戦闘隊長」で有名な加藤建夫です。加藤は北海道旭川出身。1925年(大正14年)陸軍士官学校を卒業(37期)し、1927年(昭和2年)所沢飛行学校を出てパイロットになります。飛行第二大隊中隊長として日中戦争で活躍し、太平洋戦争では飛行第64戦隊長として、一式戦闘機「隼」で編成された加藤隼戦闘隊を指揮しました。
マレー半島、ジャワ、ビルマ方面でイギリス空軍、中華民国空軍及び中国空軍を支援したアメリカ義勇軍と戦果を重ね、南方侵攻作戦の成功に貢献します。1942年5月22日ベンガル湾上空でブリストル・ブレニム爆撃機を撃墜しましたが、ブレニムの尾部統座により被爆、帰投不能に陥り、帰還困難と悟り、また敵勢力地域への着地を許さず自爆の道を選びました。戦死後、二階級特進し陸軍少将になっています。
加藤のエース・パイロットとしての活躍は軍神と称され、映画化、軍歌、国定教科書に取り上げられました。その際の映画の特撮監督は後にウルトラマンを世に出す円谷英二が担当しています。
次に紹介する人物は「零戦撃墜王」と称された笹井醇一です。笹井の父は海軍造船大佐の笹井賢二、東京で生まれました。海軍兵学校を卒業(67期)し、海ではなく空の道を選びます(当時は空軍がなく、陸軍と海軍がそれぞれ別々に管轄していた)。
日本海軍は兵学校卒業者を初めから士官として、どんな古参で優秀な下士官搭乗員より上官として優遇されていました。要するにキャリアがないのにキャリアがあるパイロットよりも役職が高いということです。笹井は役職が自分よりも低い年上のベテランパイロットに対しても真摯な対応をし、むしろ積極的に鍛えてもらいました。
太平洋戦争開戦後はマニラ、ボルネオ、スラバヤ、ジャワと転戦しラバウルに向かいラエに転出。フィリピン攻略戦のラバウルでの航空戦で同時三機撃墜など離れ業を演じるなどの活躍で27機を撃墜しました。この背景には、ベテランパイロットたちとの連携があったからです。共同撃墜は187機とされています。戦後、ベテランパイロットであった坂井三郎が著した『大空のサムライ』で「階級を超えた友情」と称されています。
1942年8月26日ガダルカナルで米国海軍マリオン・カール大尉に撃墜されソロモン上空で戦死しました。弱冠24歳でした。没後二階級特進し海軍少佐になっています。
最後に「帝都防空の雄」と称された小林照彦を紹介します。東京で生まれ、1940年陸軍士官学校を卒業(53期)し、太平洋戦争開戦直後に飛行第45戦隊に配属されました。1944年帝都防空戦闘機隊の飛行第244戦隊長に24歳の若さで抜擢され、戦闘機は「飛燕」・五式戦闘機を操ります。半年間に84機撃墜(うちB-29を73機)、撃破93機(うちB-29を29機)の輝かしい戦隊総合戦果をあげ、”小林防空戦隊”の名を不動のものとし、かつ個人撃破機数でも戦隊の最多撃墜記録保持者となりました。
そんな折、1945年7月16日の激戦を最後に、本土決戦にそなえ航空兵力温存策に移行されたため出撃禁止の命令が下りました。血気盛んな若者です、7月25日なんと戦闘教練の名目で独断出撃します。八日市上空でF6F艦載機群を奇襲し12機を撃墜しました。しかし、これは軍紀違反とされ厳しく叱責されます。小林を救ったのは天皇陛下で、御嘉賞のお言葉が伝えられて無断出撃は不問に付されました。
戦後は航空自衛隊発足に伴い復帰し、 ジェット機の操縦士となりました。その訓練中、悪天候で制御不能に陥る中、副操縦士を脱出させ、自身は市街地に墜落しないように脱出せず、浜松基地への着陸進入中に機体もろとも爆死しました。享年36歳でした。
3人の名パイロットは非業の殉職をされ、多磨霊園に眠っています。
加藤建夫 埋葬場所: 20区 1種 12側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/K/katou_tate.html
笹井醇一 埋葬場所: 18区 1種 17側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/S/sasai_j.html
小林照彦 埋葬場所: 25区 1種 32側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/K/kobayashi_te.html
【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。