「大空に挑んだ男たち その1」 梅北兼彦×中島知久平×岸一太

18世紀後半に最初の有人飛行をしたモンゴルフィエ兄弟の熱気球から、19世紀は飛行船へと進化を遂げました。「空気より重い飛行機」の動力飛行に世界で初めて成功したのはライト兄弟です。1903年(明治36年)でした。日本では1910年(明治43年)徳川好敏陸軍大尉(後に中将:清水徳川家8代当主で男爵)が日本国内で初めて飛行機により空を飛びました。翌年、日本初の航空機専用飛行場として所沢飛行場が完成します。第1回飛行演習は徳川が務めました。すぐに第2回飛行演習が行われた際に抜擢されたパイロットが梅北兼彦でした。

 梅北兼彦は鹿児島県出身。1901年に海軍兵学校を卒業(29期)した軍人で、海軍航空発足前より民間飛行学校で操縦練習を続けていました。飛行に長けていたための抜擢でしたが、所沢飛行場にて最初の墜落事故を起こしてしまいます。当時海軍大尉であった梅北はグラーデ単葉機で第1格納庫付近を滑走中に、発動機高回転により急上昇、高度15mより墜落。命に別状はありませんでしたが頭部を負傷します。初の飛行事故を起こしてしまったパイロットとして不名誉な記録がついてしまいました。

1912年大日本帝国海軍における海軍航空が発足します。山路一善大佐(後の中将で「海軍航空の生みの親」と称される)を委員長とする海軍航空術研究委員会が設置され、梅北が任命されました。1916年(大正5年)海軍航空隊令という官制ができ、独立航空隊設置の予算案が議会を通過します。同年、横須賀に初めて海軍航空隊が誕生し、同時に艦政本部で行っていた航空に関する事項を海軍省の事務局で行うことになりました。海軍飛行場が神奈川県の追浜に設置され、これが日本海軍航空発祥の地となります。

当初はフランスやアメリカ製の水上機ばかりであり、軍艦がイギリス式だった関係で、海軍はイギリスから航空顧問団を招聘しました。1922年に世界初の空母「鳳翔」を完成させます。海軍航空の草創期の同期メンバーであった中島知久平は「近い将来、飛行機から魚形水雷を投下して軍艦を撃沈する時代が、必ずやって来る」と、航空機の未来を高く評価します。小国日本の戦略としていちはやく大艦巨砲主義を否定し、有力な武器として航空機を位置づけたため、海軍を辞して、日本初の民間飛行機製作所の中島飛行機株式会社を設立しました。

商工大臣、軍需大臣だった中島知久平さん

中島知久平は群馬県出身。戦争拡大とともに軍用機生産で社業を拡張し、陸軍戦闘機〈隼〉をはじめ飛行機の3割近くを独占生産する大企業に成長させました。戦前は政治家に転身し、鉄道大臣、立憲政友会総裁として活動します。終戦後は商工大臣、軍需大臣として戦後処理に当たりますがA級戦犯に指定されてしましました(後に解除)。

中島のように大空に魅了され、自身で飛行機製作所を起ち上げる者が他にも現れます。岸一太もその一人です。

飛行機「つるぎ号」を製作した岸一太さん

岸一太は岡山県出身。岡山医学専門学校を出てドイツで学び、1902年(明治35年)台湾の台北医院(台湾大学医学院付設医院)における台湾初の耳鼻咽喉科の初代主任として医長となりました。その後、台湾総督府医院医長、台湾総督府医学校教授を経て南満州鉄道株式会社理事(南満州鉄道病院長)を歴任し、関東都督府技師から民政部警務課勤務となりました。1909年に辞して、東京築地に耳鼻咽喉科病院を開業した医師でした。

しかし、1915年(大正4年)医者の傍ら自ら開発した発動機にモーリス・ファルマンの機体をつけた飛行機「つるぎ号」を製作します。続いて初の国産機「第二つるぎ号」を完成させました。そこで医者を辞め、1931年(昭和6年)に赤羽航空機製作所を設立しました。ところが事業拡大の失敗などで4年後に倒産、その2年後に失意の中永眠されました。

梅北兼彦 埋葬場所: 14区 1種 10側〔川鍋家〕
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/umekita_ka.html

中島知久平 埋葬場所: 9区 1種 2側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/N/nakajima_c.html

岸 一太 埋葬場所: 1区 1種 1側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/K/kishi_k.html

【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。


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◆歴史が眠る多磨霊園 http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/
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