
【東郷平八郎・西園寺公望・山本五十六】
国葬とは、国家の行事として行われる葬儀のことです。葬儀の経費は国が負担します。天皇、皇后および皇太后の葬儀を特に「大喪儀」(現在では「大喪の礼」と呼ばれる)と言います。皇族の葬儀はすべて国葬です。また、国家に功績ある臣下が死去したときは、特旨により国葬を賜りました。儀式は神道の式で執り行われました。
戦後、国葬について定めていた国葬令(大正15年勅令第324号)が廃止されています。1978年(明治11年)の大久保利通は準国葬として、1922年(大正11年)大隈重信や、1975年(昭和50年)佐藤栄作は国民葬として営まわれました。それらを除く、国葬は1883年(明治16年)の岩倉具視から1967年(昭和42年)の吉田茂まで21名です。なお、吉田茂の国葬は閣議決定によるもので宗教色を排した形式により日本武道館で行われました。
多磨霊園に眠る人物で国葬第一号となったのは、1934年(昭和9年)6月5日に行われた東郷平八郎です。東郷平八郎は薩摩藩出身の海軍軍人で、とくに有名なのは日露戦争で連合艦隊司令長官として、旅順港封鎖作戦を行ない、ロシア海軍極東艦隊を黄海海戦で、また世界最強と言われていたバルチック艦隊を日本海海戦で撃破させたことです。1934年5月30日に逝去。最終階級は元帥であり、侯爵に陞爵されました。当初は代々が眠る青山霊園に埋葬予定でしたが、軍神としては一般的な墓所であったため、急きょ、多磨霊園に名誉霊域をつくり葬ることにしました。日比谷公園で営まれた葬儀の模様はラジオで実況され、参列者は184万人。日比谷公園から多磨霊園までの沿道に途切れることなく多くの人たちが列をつくり見守られ運ばれました。
1940年(昭和15年)12月5日に国葬が行われた西園寺公望が二番目です。西園寺公望は京都出身で公家・九清華家の1つ徳大寺公純の次男です。同じ九清華家の流れをくむ閑院庶流・597石の西園寺師季の嗣子となり、1852年(嘉永5年)3歳で当主となりました。内閣総理大臣を務め、長く元老として政治の中枢で活躍しました。1940年11月24日に亡くなり、国葬を以って世田谷の西園寺家墓地に葬られました。後に多磨霊園に改葬されました。
太平洋戦争真っただ中の1943年(昭和18年)6月5日に山本五十六の国葬が行われました。山本五十六は旧長岡藩士高野貞吉の6男で、山本家の養子となりました。海軍軍人として連合艦隊司令長官を務めます。太平洋戦争の反対を主張し続けてきましたが、対米戦を無視した対南方武力行使は不可能であると考え、ハワイ真珠湾作戦を立案しました。1943年4月18日前線視察のためラバウルからブインに一式陸上攻撃機で向かっている中、待ち伏せしていた米軍機に襲撃され、ブーゲンビル島上空で撃墜され戦死しました(海軍甲事件)。最終階級は元帥。皇族・貴族階級を持たない平民が国葬になった初の事例として行われました。東郷平八郎の隣りに同じ型の墓石が建之され、東郷平八郎と同じように日比谷公園で葬儀を行い多磨霊園に葬られました。
東郷平八郎 埋葬場所: 7区 特種 1側 1番
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/T/tougou_h.html
西園寺公望 埋葬場所: 8区 1種 1側 16番
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/S/saionji_k.html
山本五十六 埋葬場所: 7区 特種 1側 2番
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/Y/yamamoto_i.html
【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。