
前回は直木賞と芥川賞を設立した菊池寛の話をしました。これらの各賞には選考委員がおり、著名な作家が務めることが多いです。
戦前戦後にヒット作品を生み出した小説家の舟橋聖一(ふなばし・せいいち)がいます。1934年(昭和9年)に小説『ダイヴィング』を発表し、1935年「文学界」同人となり、1938年『木石』で文壇に認められ、戦後も1945年『悉皆屋康吉』、『雪夫人絵図』『花の生涯』など代表作があります。
舟橋は第21回(1949年・上半期)から芥川賞選考委員を務め、選考委員の重鎮として君臨していました。そこに第55回(1966年・上半期)から新しく小説家の大岡昇平(おおおか しょうへい)が選考委員に加わります。
大岡昇平は太平洋戦争で召集され、暗号手としてミンドロ島警備にあたっていましたが、アメリカ軍の捕虜になり、レイテ島ラクロバンの俘虜病院に収容され終戦を迎えました。戦後帰国し、自身の体験をもとに『俘虜記』を発表し好評を博し、1952年に戦争文学の傑作といわれる『野火』を発表。1969年に原体験はその後も追及され『ミンドロ島ふたたび』、1971年に『レイテ戦記』を刊行しました。
『レイテ戦記』は日本を代表する戦記であり、野間文学賞に選出されましたが辞退しました。その理由は選考委員の舟橋との軋轢によるものとされています。しかし、1974年『中原中也』で再び野間文学賞に選出された時は受賞を受けました。これに対して舟橋は選評で難癖をつけています。
大岡は「ケンカ大岡」と呼ばれるほどの文壇有数の論争家であり、言動が物議を醸すことも少なくありませんでした。その中でも舟橋とはライバルとして、また同じ芥川賞選考委員として双方の考えのぶつけ合いを行っていました。大岡の選考の考えは「私は芥川賞に限らず、新人賞にはなるべく当選作を出すべきであるという意見で、いつもその方針で銓衡に当っている」と述べています。よって全体的に優れた作品がなかったとしても実績を考慮して推挙することもありました。一方、舟橋は「芥川賞は、やはり定評のない新人を、委員各自の自由な視覚から、ムキになって推挙し合うところで、はじめて活況を呈することになるのだろう」と述べており、新人の格や覇気などにも言及し厳しい選考を行い「該当者なし」も度々ありました。
双方意識し合った関係にも終止符がきます。舟橋が体調不良(翌年逝去)で、1975年・上半期(第73回)を最後に選考委員を辞任しました。そのことを知った大岡も、同じく第73回を最後に選考委員を辞任したのです。プロフェッショナルとして認め合っていたからこそのバチバチ。その背景は察するに余りありますね。そんな二人は同じ霊園で眠ります。
舟橋聖一 埋葬場所: 3区 2種 6側 3番
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/H/hunabashi_s.html
大岡昇平 埋葬場所: 7区 2種 13側 22番
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/oooka_s.html
【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。