「台所革命」主婦の重労働を助けるために挑んだ人物たち 田島達策×三並義忠

かつて主婦の「炊事」は激務でした。なかでも最も重労働だったのが「飯炊き」だったのです。 電気やガスといった、いまでは生活に欠かせないインフラが整備される以前、主婦は朝早く起き、まずカマドに薪をくべて火を起こします。冷たい水でコメを研ぎ、飯釜をカマドにかけます。「はじめチョロチョロ、中パッパ、赤子泣いても蓋とるな」。カマドでの飯炊きは、火加減や水加減を少しでも間違えれば、おいしく炊けずに焦げたり生煮えになってしまいます。場数を踏み、コツをつかんだベテランの主婦でさえ、飯炊きでは常にカマドの火に気を配っていなくてはならなかったのです。この重労働が一年365日、毎日必ずのしかかっていました。おいしいご飯を食卓に乗せられなければ、即座に女房失格の烙印を押される――そういう時代だったのです。

その主婦の重労働を助けるために挑んだ人物、まず一人目は田島達策です。現在のミツウロコグループ(三鱗煉炭原料株式会社)創業者である田島は、海から離れた山間部に魚を届ける運送業からスタートしました。昭和初期に主婦の家事仕事である重たい木炭や薪運びを軽減するために、固形燃料を届ける事業を始め、エネルギー商社となります。政治家にも転身し家事仕事の軽減問題に取り組みました。田島は1938年に亡くなりますが、その意志は社員たちに引き継がれ、ミツウロコは戦後、石油やLPガスの取扱を開始して現在に至ります。

戦後復興に伴い電気やガスなどのインフラが整い、1950年代後半に新時代の生活必需品として電化製品の三種の神器、白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫(3C)が発売され、主婦の味方となりました。

同時期に誰もが手軽においしいご飯が炊ける電化製品が開発されます。「自動電気釜」です。発明したのは三並義忠です。主婦の重労働を助けるために挑んだ人物二人目です。

「台所革命」自動電気釜を発明したのは三並義忠

三並義忠は愛媛県出身で小学生の頃から機械好き。苦学してドイツの機械商社に入り力をつけ、1934年(昭和9年)に独立。小さな町工場で精密測定器を製作していました。戦後多くの電化製品が世に出る中、技術的にも困難とされ、家電メーカー各社が開発に躊躇するなかで、自動電気釜の開発と製品化を成功させました。

自動電気釜の登場は、世の主婦たちの家事負担を大きく軽減しました。具体的には、一日の睡眠時間を一時間増やし、また朝昼晩でそれぞれ一時間ずつ、計三時間もの家事負担を軽くしたといわれています。これはまさに一つの家電製品による「台所革命」と称されました。

インフラを整えることに情熱を燃やした田島達策、日本人の主食・コメを誰もが手間をかけずに手軽においしく炊けるようにさせた三並義忠。台所革命に尽力した二人が同じ霊園に眠ります。

田島達策 埋葬場所: 2区 1種 2側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/T/tajima_t.html
三並義忠 埋葬場所: 4区 1種 1側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/M/minami_yo.html

【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。


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◆歴史が眠る多磨霊園 http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/
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