地震学のパイオニアの二人は激しく対立した結果… 大森房吉×今村明恒

先月は大阪で大きな地震がありました。熊本地震や東日本大震災なども記憶に新しいところです。日本列島は海と陸の4枚のプレートの境界に位置しているため、日本中どこでも地震に見舞われます。日本の歴史は地震と伴に歩んでいるといっても過言ではありません。世界中で起きた地震の十分の一は日本で起きています。地震大国日本であるからこそ、地震の研究も盛んに行われてきました。

日本の地震学研究を世界に知らしめた二人の人物がいます。東京大学の前身の東京帝国大学地震学研究室の教授の大森房吉と、同大学の助教授の今村明恒です。

大森房吉は福井県出身で明治時代に震災予防調査会を主宰して地震学界を指導したパイオニアです。日本代表として国際会議にも出席し、多くの地震の調査報告や論文を発表しました。地震学上の業績として、1.大森式地震計、微動計の考案。2.地震帯の発見。3.初期微動と震源距離との関係(大森公式)。4.余震頻度の式。5.潮位、津波の研究。6.建築物の振動測定(耐震試験)などがあげられます。これらの業績は世界的にも認められました。

日本地震学会会長の今村明恒さんのお墓

大森よりも二歳年下の今村明恒は鹿児島県出身。王道の研究・発表を行う大森とは異なり、1899年(明治32年)当時としては異端説とされた「津波の原因は海底の地殻変動とする」説を提唱。関東エリアが巨大地震に見舞われる考えは大森と一致していましたが、今村は1905年の段階でそれは近い将来に起こる可能性が高いという記事を投稿するなど活発に警告をしていました。1911年には今村式強震計を開発し、より一層、声高く地震対策を訴えました。

大森は今村の発言や行動が世情を必要以上に動揺させることにつながると思い、それを恐れ、今村の説を退けていたため、両者は対立することになります(地震予知説論争)。多くの人たちは大森を支持したため、今村は「ホラ吹きの今村」と中傷されました。そんな時に、1923年9月1日(大正12年)関東大震災が起こります。

大森は出張先のシドニーで関東大震災の悲報を知り、 急ぎ帰国の船中で脳腫瘍のために倒れ、帰国後悪化して翌月に亡くなってしまいました。亡くなる直前に対立していた今村と和解し、今後の地震研究を託したエピソードがあります。今村は大森の後を継いで地震学講座教授となり、日本地震学会会長として統計学的研究による磁気測定、地震計の考案、地震波の位相の伝播速度測定など、地震学の発展に多くの業績を残しました。

同士であり、対立もし、そして地震学のバトンリレー。その二人が同じ多磨霊園に静かに眠っています。

大森房吉 埋葬場所: 3区 1種 24側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/oomori_h.html

今村明恒 埋葬場所: 12区 1種 5側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/imamura_a.html

【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。

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◆歴史が眠る多磨霊園 http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/
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