
日本のマンガ・アニメーションは世界的に人気を博しており、数々のグッズや関連商品も発売されています。その中でも長期的に愛され続けているキャラクターは、田河水泡の『のらくろ』と長谷川町子の『サザエさん』ではないでしょうか。
田河水泡、本名は高見澤仲太郎、東京都の出身です。最初は画家を志し美術学校で学び、卒業後は広告デザインの手伝いをしながら、落語の執筆も行っていました。絵描きと落語作家の両面を得意としていたことから、漫画の依頼を受け、1929年(昭和4年)ロボットを主人公とした『人造人間』を連載。これが日本初のロボットマンガとなります。そして、同年『のらくろ』の連載を開始しました。
犬を飼い始めたことがきかっけで、昔写生をしていた時に見た真っ黒なノラ犬を思い出し、キャラクターとしようと考え「のらくろ」と命名したということです。設定は自身の軍隊経験から犬が軍隊へ入営して活躍するという話で、最初は二等兵から始まり階級が上がるたびにタイトルを変え、最終的には大尉まで昇進させました。
これが爆発的な人気を呼び、のらくろグッズが市場に溢れ、日本で初めて漫画のキャラクターが商業的に確立しました。手塚治虫も幼い頃にのらくろを模写して技術を磨いていたことは有名な話です。戦後もリバイバル連載され、テレビアニメ化もされました。田河水泡は1989年に90歳で亡くなりましたが、今でも「のらくら」グッズは人気です。
その田河水泡の弟子になりたいと、1934年(昭和9年)山脇高等女学校に通いながら、田河家で生活を共にして画力を鍛えていたのが長谷川町子です。佐賀県で生まれ福岡県で育ちましたが、父親の死去に伴い一家が上京したのを機に弟子入りをしています。1935年「少女倶楽部」10月号に『狸の面』で漫画家デビュー。以後、連載作品も描き日本初の女性プロ漫画家として地位を確立していきました。
戦争中は福岡に疎開し西日本新聞社に勤務しました。戦後すぐ、西日本新聞の僚紙としてフクニチ新聞社から創刊された「夕刊フクニチ」で連載4コマ漫画を頼まれたことにより、『サザエさん』が誕生となります。1946年4月22日(昭和21年)から連載が始まり、掲載紙を変えながら、1951年4月16日からは『朝日新聞』朝刊の全国版で連載することに。休載などを挟みながらも、1974年2月21日まで続きました。1969年10月5日よりフジテレビでアニメ化され現在も続いています。庶民性のある家庭漫画として愛され、1992年(平成4年)に72歳で亡くなり、その年に国民栄誉賞が授与されました。
長期にわたり愛され続けられている『のらくろ』と『サザエさん』。多磨霊園には国民的漫画キャラクターを生み出した師弟が眠っているのです。
【お墓詳細】
田河水泡 埋葬場所: 24区 1種 22側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/T/tagawa_su.html
長谷川町子 埋葬場所: 10区 1種 4側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/H/hasegawa_m.html
【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。