
2016-17シーズンより新リーグのジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ(通称 Bリーグ)が発足し注目を集めている日本のバスケットボール界。学生の部活動の人気ランキングでも常に上位です。
バスケットボール世界最初の試合に出場した18人の中にいた日本人
バスケットボールは、冬の時期でも室内でアメリカンフットボールのような激しさあり盛り上がるスポーツができないものかと、カナダ人のジェームズ・ネイスミスが一人で考案した競技です。1892年(明治25年)1月20日アメリカのマサチューセッツ州スプリングフィールドにある国際YMCAトレーニングスクールにて史上初のバスケットボールゲームが行なわれました。この世界最初の試合に出場した18人の中に日本人がいました。当時YMCAの学生であった石川源三郎です。
石川源三郎は群馬県出身で、1886年(明治19年)に渡米し神学校などで学び、1901年に帰国して三井物産で商社マンとして働きます。その後、国際無線電話社代表やNHK理事会のメンバーなどに名を連ねる実業家として活躍し、1956年に90歳で亡くなりました。
バスケットボールを日本に初めて紹介
実はバスケットボールを日本に初めて紹介したのは石川源三郎ではありませんでした。YMCA体育教授を務めていた大森兵蔵が、帰国後、1908年(明治41年)東京YMCAで初めて紹介したのが最初と言われています。その際、バレーボールも日本に紹介しました。
大森兵蔵は岡山県出身。1912年に日本が初めて参加したスウェーデンの第5回ストックホルムオリンピックに日本選手団の監督として参加し、近代スポーツの先駆者と称されています。しかし、その大会の帰途、アメリカで肺結核のため36歳の若さで亡くなりました。
バスケットボールの全国普及に貢献
その後、1924年全日本学生籠球連合が発足し、大学を中心に全国各地で対抗戦が行われるようになりました。その中心人物にいたのが冨田毅郎です。
冨田毅郎は東京出身で政治家の冨田幸次郎の子。学生の頃からまだ知名度が低かったバスケットボールのチームをつくり、早稲田大学生時代にバスケットボールを正式に体育会に承認させ、卒業後も監督として普及活動に携わりました。1927年(昭和2年)冨田が資金調達を行い、米国遠征を成功させます。本場のバスケットボールに触れ、そこで学んだ技術を日本に持ち帰り、更なる普及に尽力。1930年に大日本籠球協会を創設し理事長に就任。戦後、再発足させ、日本バスケットボール協会初代会長になります。規則書発行に着手し、バラバラで行われていたルールを正規のアメリカンルールに統一させました。1985年に81歳で亡くなりました。
世界初のバスケットボールの試合に出場した石川源三郎、日本にバスケットボールを紹介した大森兵蔵、バスケットボールの普及と発展に尽くした冨田毅郎。この三者が同じ多磨霊園に眠ることに因果を感じますね。
【お墓詳細】
石川源三郎 埋葬場所: 14区 1種 7側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/ishikawa_ge.html
大森兵蔵 埋葬場所: 20区 1種 10側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/oomori_hyo.html
冨田毅郎 埋葬場所: 9区 1種 2側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/T/tomita_gi.html
【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。