
〈はじめに〉「歴史が眠る多磨霊園」スピンオフ
多磨霊園は東京都府中市と小金井市にまたがる都立霊園であり、1923年(大正12年)開園しました。東京ドーム27個分に相当する(128万0237平方メートル)広大な敷地には、40万の御霊が眠ると言われています。明治・大正・昭和・平成に活躍した眠る著名人の数も相当数います。ここでは多磨霊園に眠る著名な方々を題材に紹介をしていきたいと思います。
筆者:『歴史が眠る多磨霊園』制作者・多磨霊園著名人研究家 小村大樹
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/
2013年(平成25年)に公開されたスタジオジブリ制作の長編アニメーション映画『風立ちぬ』(宮崎駿監督)。この映画は実在の人物である堀越二郎さんが零戦を開発していく実話に、堀辰雄さんの小説『風立ちぬ』をミックスした創作作品です。
「風立ちぬ」モデルは零戦の生みの親
堀越二郎さんは三菱内燃機製造(三菱重工業)名古屋航空機製作所で働いていた航空技術者で、太平洋戦争で活躍した「零式艦上戦闘機(零戦)」の生みの親です。零戦以外にも、逆ガル翼を採用した画期的な設計の「九試単座戦闘機」や、「雷電」「烈風」など海軍機の設計主務者としても活躍しました。戦後は航空学会会長、防衛大学校教授なども歴任。1982年1月11日(昭和57年)に78歳で亡くなりました。
「風立ちぬ」作者は「生」を強く意識
堀辰雄さんの小説『風立ちぬ』は作者本人の実体験をもとに執筆されたものです。堀辰雄さんは肺結核のため軽井沢でしばしば療養をしていました。1933年(昭和8年)同じく肺を病んで療養をしていた矢野綾子さんと知り合い、翌年二人は婚約したのですが、堀辰雄よりも彼女の方が病が重く献身的に支えます。しかし、1935年婚約者を亡くしてしまいます。愛する者の死を覚悟しながら、2人の限られた日々である「生」を強く意識して、共に生きた実話を基に書き下ろした作品を、1936年『風立ちぬ』というタイトルで発表しました。
「風立ちぬ」キャッチコピーは敬意を表して…
作中にある「風立ちぬ、いざ生きめやも」から、ジブリ作品のポスターのキャッチコピーは「堀越二郎さんと堀辰雄さんに敬意を表して。いざ生きめやも」としています。堀辰雄さんは戦前多くの作品を発表していますが、症状が重くなり、戦後はほとんど作品を発表できず、1953年5月28日(昭和28年)に48歳の若さで亡くなりました。
生前、二人は面識も接点もなかったのですが、時を経て、ジブリ作品でコラボレーションしました。そんな二人が同じ多磨霊園に眠っているのに運命を感じますね。