蟻の街のマリアと呼ばれた北原怜子(きたはらさとこ)の慢心と回心

信仰は奇跡は起こす。しかし奇跡とは海を割ったり、死後復活するなどの神話的なものだけではない。「蟻の街のマリア」と呼ばれた北原怜子(きたはらさとこ)は己の傲慢に打ちひしがれ、その度に回心が起こり、小さな奇跡を起こした。

■蟻の街と北原怜子との出会い

終戦後、焼け野原となった東京には家族や家を失い、職も無い人達が溢れていた。その一角、東京都墨田区の隅田公園の言問橋(ことといばし)の近くには、そうした人達が身を寄せ合い、廃品回収業を生業に働いて暮らす街があった。

蟻のように勤勉で助け合って生きていく人達のコミュニティは「蟻の街」と呼ばれた。リサイクルが推奨される現代とは違い、廃品回収業は「バタヤ(屋)」と呼ばれ、他人からさげすまれる仕事だった。他人のゴミを頂いて金に変えると書くと卑しい仕事のようだが、犯罪でも何でもない正当な仕事である。しかし卑しい仕事とされ、子供たちは学校で「バタヤの子、クズヤの子」といじめられていた。それでも彼らは懸命に働いた。他人から物を恵んでもらうのではなく、蟻のように力を合わせ、自分たちで生きていく意思を持った人達だった。

大学教授を父に持ち裕福な家庭で育った北原怜子(1929〜58)は修道士ゼノ・ゼブロフスキー(1898〜1982)と出会い、蟻の街の存在を知る。カトリックの洗礼を受け、修道女になることを望みながら、慈善活動にも勤しんでいた敬虔な少女は「蟻の街」で奉仕を始めることを決意した。

■蟻の街に対する北原怜子の奉仕を自己満足だと指摘した松居桃楼

そんな怜子の慈善活動を、街の世話人として活動していた文筆家・松居桃楼(1910〜94)は偽善だと指弾した。自分たちは普段温かい家で美味しいものを食べ、たまに子供たちに美味しいごちそうを振る舞う。そんなものは自己満足に過ぎないと。子供たちはまた貧しい日常に帰っていくのだ。あの日食べた美味しいごちそうを思い出しながら。松居は怜子に言う。

「『助けてやる』という気持のときには、助ける人が上で、助けられる人が下なのです。つまり<助けられる人>を見くびっているのです。だが、ほんとうの同情というのはそんなものじゃない。上も下も関係なしに、肩を並べて、一緒に悩み、一緒に苦しむことなんです」(松居桃楼「アリの街のマリア 北原怜子」)

これは介護や看護、医療にも通じることだろう。同じ目線で寄り添うこと。例え見た目は頭を下げていても、高所高台にいる限り見下ろしていることには変わりはないのだ。

余談だが、この時の怜子と松居のやり取りは漫画「あしたのジョー」の場面を思い出させる。ヒロイン的存在で財閥令嬢の白木葉子は月一回少年院を訪問するという慈善活動を行なっていた。矢吹丈はその行為の底にある偽善性を見抜き「令嬢の気まぐれ」と厳しく批判した。

■北原怜子は慢心と回心を繰り返した

とはいえ、松居のこの指摘は厳しすぎるようにも思える。松居も普通の例えば学生のボランティア活動にここまで言ったとは思えない。松居には怜子がクリスチャンとしての使命感に満ちていたこと。それこそが鼻につく、大いなる傲慢としか見えなかったのだ。打ちひしがれ、蟻の街を離れた怜子はふとしたことから、めくった聖書の一節に心を打たれた。

「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです」(コリント人への手紙 第二 第8章9時節)

神の子イエス・キリストは貧しい大工の子として生まれ、十字架の上で死んだ。それに比べて自分は、たかが子供に勉強を教えたり、食べ物を恵んだくらいで何かをしてやったつもりでいた。松居の指弾は聖書の教えそのものだったのである。いや、神様がお叱りになった。怜子にはそう思った。そして怜子は自らバタヤとなり、蟻の街の子供たちと共に廃品回収業に勤しむことになる。怜子は傲慢から解き放たれ回心したのである。

■蟻の街のマリアと呼ばれ、映画化もされた北原怜子

怜子はバタヤとして廃品回収に務め、病人の世話をし、子供たちに勉強を教えた。夏休み旅行に行くことなど思いもよらない子供たちとの箱根旅行も、子供たちと力を合わせてバタヤで稼いだ金で実現させた。この時はさしもの松居も驚嘆した。さらに誕生会や運動会などのイベントも立ち上げ、初めは渋々参加した大人たちの好評を得た。働くことだけで精一杯だった蟻の街の住民たちに笑顔が宿る。彼らは怜子に全幅の信頼を置くようになった。

怜子の献身ぶりにマスコミも飛びつき、「蟻の街のマリア」として報じた。怜子の名は全国に知られるようになる。そして映画「蟻(あり)の街のマリア」(1958年・松竹)までが製作された。しかし怜子は結核に倒れ、松居らの勧めもあり、蟻の街を離れ静養することになった。

■そしてまた繰り返される慢心と回心

体調も回復し、蟻の街に復帰した怜子を待っていたのは、怜子がいなくても成長していく子供たち。そして怜子の代わりに働く女性の存在だった。その女性は蟻の街の住人と結婚するという。怜子は己の慢心を突きつけられた。「蟻の街のマリア」などともてはやされ、記事になり映画にもなった。いい気になっていた自分。蟻の街に飛び込んでバタヤになるくらいで、自分を捨てたと思いこんでいた自分。子供たちにとって自分はなくてはならない存在。それがいかにエゴに満ちた傲慢な自分であったか。例え意識しなくても「私こそが蟻の街のマリアなのだ」と自負していたであろう自分を、「神様がお叱りになってくださったのだ」。怜子は自分を大きく扱った新聞や雑誌記事のスクラップなどをすべて焼き捨てた。そして、蟻の街を去ろうと決めた。

この怜子の回心は四股切断の念仏者・中村久子(1897〜1968)のそれに似ている。久子もまた、世間に認められた成功者としての自らの傲慢に気づき、見世物小屋に戻った。怜子と久子には不思議な類似を感じる。

■蟻の街の独立と北原怜子の帰天

ほどなくして怜子は結核を再発、症状は悪化の一途を辿った。そして神より頂いた最後の命を使い切るように蟻の街に戻った。蟻の街は東京都との交渉の最中であった。都は「くず物取扱条例」を施行してバタヤや浮浪者排除に乗り出しており、蟻の街もその対象として処分されようとしていた。蟻の街は不法占拠でも何でもない。廃品回収業は立派な経済活動であり、後ろ指刺される筋合いのないコミュニティであった。ゼノ修道士は立ち退きを回避するために教会を建てた。松居らの交渉の末、深川の埋立地に移転が決定した。その際、松居は北原怜子の著書「蟻の街の子供たち」を持参し、担当者も大いに感銘を受けたという。そのことが交渉の成功につながったと松居は書いている。怜子はその結果を見届けると、この世における目的を果たしたように蟻の街で命の灯火を消した。1958年1月23日 怜子帰天。享年28歳。最後までほほえみを絶やさなかったという。葬儀では数百人の会葬者が歌う聖歌に送られ、怜子は愛する蟻の街を旅立った。

■列福運動によって「尊者」の名が与えられた北原怜子

ローマカトリック教会では生前の徳や聖性、奇跡が認められた者に称号を与えられることがある。調査の結果で認められるとまず「尊者」の名称が与えられる。その後も精査が行われ、さらに優れた業績が認められると「福者」となり(列福)、最高位の「聖人」の名まで用意されている(列聖)。怜子の死後も列福運動が行われており、2015年1月23日怜子は「尊者」の名が与えられた。北原怜子の名が後世に伝えられ讃えられることは喜ばしいことである。しかし天国の怜子はそのような名称云々よりも、現代の恵まれない人たちの身を案じているのではないだろうか。

■その後の蟻の街と現在

北原怜子28年の人生は回心の連続だった。回心したと思っていた自分の傲慢に気づき(気づかされ)再び回心していく人生だった。聖書に「悔い改めなさい。天の御国は近づいた」(マタイの福音書 第4章17節)とある。批判も病気も全ては天国へ行く糧だったのかもしれない。命は神から頂いたものであり、決して粗末にせず懸命に、慢心せず謙虚に生きなくてはならない。怜子の人生はそれを教えてくれる。

蟻の街はその後、移転先の埋立地が繁華街から遠く廃品回収には不向きな土地であったことから、街の人々は少しずつこの地を離れていった。移転後まもなく建てられた「蟻の町教会」、現在の「カトリック潮見教会」(江東区 潮見)がその名残りを伝えるのみである。教会堂には「蟻の町のマリア」の名が冠せられ、近くには怜子の像と顕彰碑が立つ。像には聖母マリアの言葉が刻まれている。

「われは主のつかいめなり、仰せの如くわれになれかし」(ルカの福音書第1章38節)

■参考資料

■松居桃楼「アリの街のマリア 北原怜子」(1998)春秋社
■北原怜子「蟻の街の子供たち」聖母文庫(2003)
■新改訳 新約聖書 いのちのことば社
■カトリック東京大司教区 ホームページ 「カトリック潮見教会」
■「北原怜子(さとこ)さん、尊者に」カトリック中央協議会ホームページ 2015年 1月 26日配信

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